人を殺してはならない論理的な理由とは?②社会秩序の維持と功利主義に基づく証明
前回の記事で書いたように、
人を殺してはならない論理的な理由を示すための最もシンプルな論証のパターンとしては、
自己の生命の肯定と他者との平等性という人間の心の内にある二つの直観的前提に基づいて、自己の生命が肯定され守られるべきであるのと同様に他者の生命も肯定され守られるべきであるという結論を導くという論証パターンが考えられることになります。
それに対して、今回取り上げる論証パターンにおいては、人間社会における秩序の維持と功利主義に基づく善悪の判断という二つの概念について取り上げ、
そうした人間の意識において直観的に真であるとまでは言えないものの、受け入れることが十分に合理的と考えられる二つの前提からスタートして、前回と同様に「人を殺してはならない」という道徳命題を必然的な結論として導く議論を考えてみたいと思います。
社会秩序の維持と個人における身体的・経済的なリスクの関係
まず、今回取り上げる論証のパターンにおいて、最初の前提となる社会秩序の維持という概念についてですが、
人を殺すことが道徳的に悪といえるのか?という議論はひとまず置いておくとしても、通常の社会においては、
人が頻繁に数多く殺されてしまう社会よりも、そうした殺人行為があまり起きずに平穏な社会生活が営まれる社会の方が一般的に社会全体における秩序の安定性が高く、治安も維持されやすいと考えられることになります。
そして、
社会秩序が不安定で治安の悪い社会では、人間は自分の命が危険にさらされることはもちろん、せっかくお金を稼いで財を蓄えても、その財産が奪い取られるリスクや、蓄えたお金や財の価値自体が失われてしまうリスクが生じてしまうことになるので、
そうした人が頻繁に殺されてしまうような秩序が不安定な社会では、その社会の中で生きているすべての人間は、非常に大きな身体的・経済的なリスクに常にさらされ続けることになってしまうと考えられることになります。
このように、
人間社会の内に生きている一人一人の個人にとって、
「人を殺してはならない」という道徳命題が守られている世界の方が、こうした道徳命題が守られていない世界よりも、全体として身体的・経済的なリスクが低くなると考えられることになるのです。
功利主義の判断基準に基づく殺人行為の善悪の判断
それでは、次に、
個人において身体的・経済的なリスクが高まることが道徳的な善悪とどのように結びつけられることになるのか?ということについてですが、
それについては、功利主義における善悪の基準を導入することで両者の概念を結びつけることが可能となると考えられることになります。
功利主義においては、人間の行動における善悪の基準は、利益や快楽としての功利に求められることになり、
個人において身体的な快楽、あるいは、経済的な利得がもたらされる行為は善であり、苦痛や損失を被ってしまう行為は悪であると規定されることになります。
そして、
こうした功利主義におけるシンプルで合理的な善悪の判断基準に従うと、
社会秩序の安定を脅かすことによってその社会の内に生きている人々に身体的な苦痛や経済的な損失がもたらされる危険性が高まる行為は悪であるとされることになるので、
社会の安定を脅かすことへとつながる行為である人を殺すという殺人行為は、こうした社会秩序の維持と功利主義に基づく善悪の判断という観点から悪しき行為であると結論づけられることになるのです。
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以上のように、
今回取り上げた人を殺してはならない論理的な理由を示すための第二の論証パターンにおいては、
まず、人を殺すという行為が、社会全体における秩序の安定や治安の維持を脅かす行為であることを示すことを通じて、
それが、殺された当人だけではなく、その社会の内に生きているすべての人々に対して、身体的な苦痛や経済的な損失がもたらされるリスクを高める行為であるということが示されることになります。
そして、最もシンプルで合理的な判断基準の一つである功利主義における善悪の基準に従うと、
そうした個人に対して身体的な苦痛や経済的な損失がもたらされる危険性を高める行為は、端的に悪であると規定されることになるので、
このようにして、人間社会における秩序の維持と功利主義に基づく善悪の判断という二つの観点から、「人を殺してはならない」という結論が必然的に導かれると考えられることになるのです。
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次回記事:人を殺してはならない論理的な理由とは?③共感性と身体感覚に基づく証明
前回記事:人を殺してはならない論理的な理由とは?①二つの直観的前提に基づく証明
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