旧約聖書のアダムとイブにおける所有の概念の起源とは?善悪の知恵の木の実がもたらした衣服の製作と所有の起源
所有とは、人間が何らかの物を自分のものとして持っていて、その物を所有者である当人自身の意思によって自由に使用したり処分したりすることができる権利があることを示す概念です。
そして、通常の場合、所有という言葉は、道具としての利用価値やある種の財産的な価値を持つものに対して用いられることが多く、
例えば、「車を一台所有している」とか「これは私の所有するメガネである」といった表現は可能であるものの、自分がいま持っているものであるからといって、食卓に出てきたパンを一個手に取って「これは私の所有するパンである」などと発言するのは少し不自然な表現ということになります。
それでは、こうした意味における人間における所有の概念の起源は、旧約聖書などの神話の世界や、寓話的な意味における起源としては、どのようなところに求められと考えられることになるのでしょうか?
「創世記」のアダムとイブにおける衣服の製作と所有の起源
旧約聖書における記述の中で、人間における所有の概念との関連性が深い箇所としては、まず第一に、
旧約聖書の最初の書にあたる「創世記」におけるアダムとイブと善悪の知恵の木の実に関する話が挙げられることになります。
「創世記」の第3章においては、狡猾な蛇によってイブがそそのかされて、神によって決して食べてはならないと命じられていた禁断の木の実に手を出してしまい、一緒にいたアダムと共に二人でその禁断の木の実を食べてしまう場面が描かれることになりますが、
旧約聖書において、上記の場面は以下のような形の記述によって示されています。
蛇は女に言った。
「…それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
(旧約聖書「創世記」第3章4節~7節)
つまり、
アダムとイブが蛇が勧めるのに従って神から禁じられた禁断の木の実を口にした瞬間から、
二人はただ本能のままに自分の体を動かしているだけの状態から、身の回りにある物を自らの目的にかなった形へと加工し、それを道具として利用することができるだけの知恵と理性をもった状態へと移行することになり、
その瞬間から、二人が自分の手に持っているいちじくの葉は、単に自分がいま手に取っているというだけのただの一枚のいちじくの葉ではなく、
アダムとイブのそれぞれが別々に所有する衣服へと姿を変えたと考えられることになるのです。
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以上のように、
旧約聖書の「創世記」におけるアダムとイブに関する記述に従うと、
最初の人類であるとアダムとイブは、神からの命令に背いて善悪の知恵の木の実を食べることによってはじめて、
彼らが今までは持っていなかった善悪の知恵、すなわち、物事を論理的に判断するために必要な理性や知恵を手にすることになるのですが、
こうして新たに手にした知恵を用いて、アダムとイブの二人がはじめて行ったことこそが、自らの体を覆うために使用する衣服の製作と所有であったと考えられることになります。
つまり、
旧約聖書において、人間における所有の概念の起源は、最初の人類であるアダムとイブが善悪の知恵の木の実を食した瞬間に求められることになり、
逆に言えば、人間の知恵や理性とは、その誕生の原初から、所有の概念と極めて深い関係にあったと考えられることになるのです。
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