国法と国家に逆らう三重の不正を犯す者、「悪法もまた法なり」とソクラテスは言ったのか?②
前回書いたように、
『ソクラテスの弁明』の続編である『クリトン』においては、法律を破って脱獄と逃亡を図ることは人々の秩序ある生活を揺り動かし、ひいては国家の存続自体を脅かすことへとつながる不正な行いであり、
そうした不正を行うことは悪なので、人はどのような場合においても国法に逆らうような不正を行ってはならないということが主張されることになります。
そして、
こうした『クリトン』におけるソクラテスと擬人化された国家と国法との間の寓話的な対話の続きでは、さらに、
国家と国法に逆らう人の不正のあり方は、以下のような三重の不正を犯す者として糾弾されていくことになるのです。
国法と国家に逆らう三重の不正を犯す者
無実であるソクラテスが死刑判決という不当な判決を国家の裁判によって下されたのだから、この場合、国法に逆らってでもその不当な判決から逃れることは正当な権利の行使であり、
むしろ、「国家の方こそが私たちに不正を行うものである」(『クリトン』、第11節)とするソクラテスが牢獄から逃亡することを擁護する主張に対して、
ソクラテスの仮想的な対話相手である国法と国家は、以下のような論駁を加えていくことになります。
国法と国家:「我々はお前を産み落とし、扶養し、教育し、またお前やその他すべての市民に我々のもとにあるあらゆる善きものを分け与えてきた…
お前たちのうちで、我々がいかにして裁判を行い、国政を取り仕切るのかを見てきていながら、なおこの国に留まり続けている者は、我々の命じる一切のことを履行することを自らの生き方によって我々に約束した者だと我々は主張する。
そして、我々に服従しない者について、我々はここに宣言する。
彼は三重の不正を行う者であると。
それは第一に、彼はその生の付与者である我々に服従しないからであり、
第二には、その養育者にも服従しないからであり、
そして第三には、我々に服従を約束しておきながらそれを果たそうともしないからである。…」
(プラトン著、『クリトン』、第13節)
つまり、ここでは、
社会的な動物である人間は、この世に一人で生まれてきたのでもなければ、誰の手も借りずに育ってきたわけでもないので、
これまで、国家の庇護を受けてその善い部分を十分に享受してきたにも関わらず、ひとたび自分に都合が悪いことが起こるとこれを悪者扱いしてその決定に逆らい、これを根本から覆そうとするのは恩を仇で返す自分勝手な行為であり、
ましてや、
当人が十分に分別のついた大人であり、自分が暮らしている国家のあり方が気に入らないのであれば、いつでも自由に国外へと立ち去る権利をも与えられてきたとするならば、
それでもなお、その国に留まり続けている者は、自分が暮らしている祖国における政治や裁判のやり方については十分に承知し、そのような国法と国家のあり方に基本的には同意したうえで、その支配のもとに暮らすことを自らの生き方で選び取ってきたと考えられるので、
普段は、国法と国家のあり方に同意しているように見せかけて自分にとって都合が良い部分は享受しておきながら、都合が悪くなるとこれを覆して同意していたはずの約束を反故にするというのは嘘つきの詐欺師の行為であるということが主張されているということです。
そして、
自らが同意と承認を与えてきた国法と国家によって定められた正当な裁判の手順に従った裁定を下されながら、
そうした国法と国家が定める正当な権力の行使を認めずにこれに異を唱えるばかりか、国法を破ってこれを公然と踏みにじる行為に及ぶのは、
それまで自分を守り育ててくれた父なる国法と母なる国家に対する裏切り行為であり、それは、親に仇なし、天に向かって唾を吐く不道徳者の行為であるとして厳しく糾弾されるということになるのです。
・・・
以上のように、
ソクラテスと国法と国家のコンビとの間の論争における、ここまでの話の流れを見ていると、
まるで、
親である国法と国家には生み育ててくれた恩があるのだから、それがどんなに悪い親であったとしても子供である国民は文句を言わずに従うべきだとでも言わんばかりの国家と国法への絶対服従を説く思想が語られているようにも考えられることになります。
つまり、
我々は国法と国家による庇護のもとに生まれ、育まれ、安全で秩序ある生活を営むことが可能とされてきたうえ、我々自身もそうした国法と国家のあり方に基本的には同意してこれまでの人生を歩んできた以上、
たとえそれらが、悪法と悪しき国家としての側面をもっていたとしても、その決定には文句を言わずに黙って従うべきだという主張がなされているとも解釈できるということです。
そして、このような解釈に基づくと、
ここまでの『クリトン』におけるソクラテスと国法と国家との間の議論における結論は、
たとえ、悪い法律であったとしても、それが法である限り黙って従わなければならないという「悪法もまた法なり」の一般的な解釈そのままの結論になっているようにも思えてしまうわけですが、
ここから、ソクラテスと国法と国家との間で交わされる議論は、少し違った方向へと進んでいくことになるのです。
・・・
次回記事:自らの不正を自らの行いによって認める者、「悪法もまた法なり」とソクラテスは言ったのか?③
前回記事:「悪法もまた法なり」とソクラテスは言ったのか?『クリトン』における国家と国法との寓話的な対話
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