常に原点へと回帰し続ける堂々巡りの知の探究、ソクラテスの問答法とは何か?⑤

前回までのシリーズで書いてきたように、

プラトンの対話篇『ラケス』におけるソクラテスの問答法に基づく勇気をテーマとした議論においては、

勇気という徳についての知の探究は、最終的に、「善と悪を見分ける知」という人間が善く生きるためのアレテー)自体の定義へ行き着くことになります。

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勇気の徳とは徳自体であり、徳とは徳であるというトートロジー

『ラケス』における知の探究の議論において、ソクラテスは、

善美なる徳の一部である勇気の徳とは何か?という問いを立て、その普遍的な定義を探っていくことで、勇気についての知の吟味と探究を図っていくことになるのですが、

その知の吟味と探究の道は、巡り巡って、勇気とは人間が善く生きるために必要な善美なる徳であるという原点の命題へと再び戻って来ることになります。

しかし、

そもそも徳の一部である勇気とは何か?という問いに始まった議論が、最終的に徳自体の定義へと戻って来てしまったということは、

それは、勇気の徳とは何か?という問いに対して、それは徳自体であると答えてしまっているということを意味することになります。

つまり、

『ラケス』における勇気という徳につていの知の探究の議論は、最終的に、

勇気の徳とは徳自体であり徳とは徳であるという堂々巡りトートロジー同語反復)の議論に陥ってしまっていると考えられることになるのです。

より正確に言えば、

『ラケス』においては、人間が善く生きるための徳の内の一つである勇気の徳についての知の探究を進めることによって、

徳自体の定義である「善と悪を見分ける知」という定義が得られたと考えることもできるのですが、

そもそも、

ソクラテスにおけるアレテー)とは、人間が善く生きるための善なる知のことを指す概念であり、

善なる知とは、何が善であるかを見分けることができる知、すなわち、善と悪を見分ける知ということになるので、

結局、こちらの徳自体の定義に関する議論でも、善なる知、すなわち、善と悪を見分ける知である徳とは何か?という問いに対して、それは、善と悪を見分ける知であるというトートロジーの形で答えてしまっていると考えられることになるのです。

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常に原点へと回帰し続ける堂々巡りの知の探究

以上のように、

ソクラテスの問答法においては、対話相手の主張に対するエレンコス論駁反駁)における演繹的推論や、エパクティコイ・ロゴイと呼ばれる帰納的議論を通じて、対話相手と自分自身の知を吟味する知の探究が進められていくことになり、

そうした一連の議論を通じて、

自分は善美なる徳についてよく知っていると主張する知者たちが持つ知のあり方についての吟味がなされ、

彼らが、自分が知っていると称している善美なる徳については、実は全くの無知であるということが明らかにされていくことになります。

そして、

『ラケス』におけるソクラテスと対話相手である知者たちとの議論の流れを見ればわかるように、

対話相手の知のあり方の論駁を進めていくことによって、対話を行う前よりも勇気という徳についての知自体への理解は深められていくことになるのですが、

そうしたソクラテスの問答法における一連の議論は、最終的には、完全な勇気の知についての定義へは到達せずに、それは、むしろ、議論の出発点へと原点回帰してしまうと考えられることになります。

勇気についての知の探究の途中で出会った、すべての段階における勇気の定義は、ソクラテスの問答法に基づく論駁によって全部廃棄されてしまい、

結局、勇気とは何か?という問いに対する絶対的に正しい結論普遍的真理は得られないままに、議論が元のスタート地点へとピッタリ戻って来てしまったところで『ラケス』における勇気についての知の探究の議論は終わってしまうことになるのです。

それでは、

『ラケス』におけるような、ソクラテスの問答法に基づく議論は、単に相手が無知であることを論証するためだけの議論であり、

その知の吟味と探究によって得られた知の内容自体は、そのすべてが無価値で無駄なものだったのか?というと必ずしもそうではなく、

ソクラテスの問答法に基づく対話と論駁によって得られた知は、常にその知の探究原点へと回帰し続けるので、完全な知、すなわち普遍的真理へは到達しきらないものの、

そうした知の吟味が様々な角度から多面的に進められていくことによって、普遍的真理の全貌や輪郭が徐々に明らかになっていくといった形で、善美なるものについての知の探究は確実に前へと進んでいると考えられることになります。

そして、

こうしたソクラテスの問答法における知の堂々巡りのあり方は、自分が無知であるということを知るというソクラテスの無知の知におけるパラドキシカルな知のあり方とも深く関わっていくことになるのです。

・・・

次回記事ソクラテスの無知の知とは何か?①デルポイの神託の真意を確かめる知の探究への道

前回記事:勇気とは何か?恐れるべきものと恐れるべきでないものを分かつ善悪の知、ソクラテスの問答法とは何か?④

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