善く生きるとは何か?②四元徳に基づく善い生き方とソクラテスにおける知徳一致の思想
前回書いたように、ソクラテスの哲学における「善く生きる」ことの核心には、自らの魂を善くするための魂への気遣いがあると考えられるのですが、
ソクラテスにおいては、そうした魂への気遣いは、端的に言えば、徳の習得によってもたらされると考えられることになります。
魂の善さに関わる四元徳に基づく善い生き方とは?
ギリシア語における徳(arete、アレテー)とは、もともと、人間の持つ能力やその優れたあり方、卓越性のことを指す概念であり、
例えば、
ミケランジェロのように優れた彫像を作り上げることができる人物は、彫刻家としての徳を持った人であり、
優れた政治家のように、言論によって人々を説得する技術に秀でた人物は、政治家としての徳を持った人、または、弁論術の徳を持った人であると考えられることになります。
しかし、
ここでソクラテスが言っている徳とは、そうした人間が有する能力や技術の全般についての徳(アレテー)のことを指しているわけではなく、
人間が有するあらゆる徳のうちでも、特に、魂の善さを実現するのに関わる能力と卓越性を持った徳について語っていると考えられることになります。
そして、
そうした人間の魂の善さに関わる徳のあり方については、
のちに、ソクラテスの弟子であるプラトンにおいて、知恵と勇気と節制そして正義という四つの徳、すなわち、四元徳の形にまでまとめ上げられることになるのですが、
こうした四つの徳の相互作用によって人間の人格とその人の人生のあり方が形成されていくと捉えられることになります。
つまり、
善く生きるための魂の気遣いは、知恵・勇気・節制・正義といった人間の魂を善いものにするための徳の習得によってもたらされ、
それぞれの徳の力が十分に発揮された時に、善く生きるという人間にとっての理想の人生の実現がもたらされると考えられるということです。
そして、以上のことを踏まえると、
どうすれば善く生きることができるのか?という問いに対する一般的な解答としては、ひとまずは、四元徳のあり方に基づいて、
善悪についての十分な知恵と知識を持ったうえで、節制のある規則正しい生活を送り、それが自分の人生や社会にとって善い行いであるならば勇気をもって行動に移し、選択を迫られるあらゆる局面で不正を働かずに正義を行うことができれば、
それが人生の総体としての善い生き方につながっていくと考えられることになります。
魂を善くするための知の愛求と知徳一致の思想
それでは、次に、どうすれば、四元徳に適うような生き方が可能となり、人間の魂の善さに関わる徳を十分に習得することができるのか?ということですが、
そうした魂を善くする徳を身につけることは、知の愛求(philosophia、フィロソフィア)すなわち、哲学の営みによってのみもたらされるというのがこの問いに対するソクラテスの解答ということになります。
つまり、
自らの魂をより善いものへと高めていくための徳の習得は、そうした善なる徳についての知識を得ること、すなわち、善美なるもの(kalon kagathon、カロン・カガトン)についての知を得ることによってもたらされるということです。
そして、
こうした「徳とは知である」というソクラテスにおける知徳一致の思想は、さらには、道徳の実現は、善なるものについての知によってのみもたらされるというソクラテスの主知主義の思想へとつながっていくことになるのです。
・・・
しかし、
善なる知からは必ず善なる徳、そして、善なる行いがもたらされるとするこうした主知主義の主張は、一見するとすぐに矛盾へと陥ってしまうようなパラドキシカルな議論を含んでいるとも考えられることになります。
例えば、もしも、
こうした主知主義の主張を通常の字義通りに解釈して、一般的な善についての知識を持っている人は、その知識に従って必ず善なる行動のみを行うとするならば、
善悪に関する道徳的な知識も含めた十分な教養を身につけた知性の面でも優れている人物は、必然的に善なる行動のみを行い、悪いことは一切しないと考えられることになりますが、
現実の世界では、そうした学歴も高く、知能も十分にある人間が悪事に手を染めるケースはあえて例を挙げるまでもないほどに、実際には数多く存在すると考えられることになります。
このように、
かえってそうした知識や知恵があるゆえに、それを利用して他人を騙したり、不正を働いたりして悪の道へと進んでしまう人間もいる以上、
知恵や知識自体は善い生き方だけではなく、悪い生き方にも同等に用いることができると考えられることになりますし、
単に知識として何が善で何が悪であるかを知っていたとしても、そのことだけですべての人が善人になるといったことは到底あり得ず、
むしろ、実際に人が悪事を行う場合においては、自分がやっていることが悪と分からずに行う悪人よりも、悪を悪と分かっていながら行う悪人の方がよっぽど多いと考えられることになります。
それでは、
ソクラテスは、こうした主知主義における矛盾をどのように解決し、善なるものについての知とそうした知への愛求のみから、善なる徳の習得と、ひいては、善く生きるという生き方の実現自体を成し遂げていくことになるのでしょうか?
・・・
次回記事:ソクラテスの主知主義のパラドックスの論理整合的な解釈と普遍的真理としての善なる知、善く生きるとは何か?③
前回記事:善く生きるとは何か?①ソクラテスにおける魂の気遣いと知の愛求への道
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