「博識は覚知を授けず」ヘラクレイトスの箴言と博識の弊害
紀元前6世紀後半の古代ギリシアの哲学者、
ヘラクレイトス(Herakleitos、前540年頃~前480年頃)は、
その数多くの箴言のなかの一節で、
「博識は覚知を授けず」
(ヘラクレイトス・断片40)
という言葉を残しています。
つまり、
博識、すなわち、多くの知識を持っているからといって、
それが、
覚知、すなわち、真理についての確かな認識につながるとは
限らないということです。
今回は、
この言葉からどのような思想を読み取ることができるのか?
ということについて、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。
知識の量と質
このヘラクレイトスの箴言は、
「博識は分別を教えない」、「博識は悟りを得ることを授けない」、
などと訳されることもあり、
この言葉が意味することは、ひとまずは、
多くの知識と真なる知識、すなわち、
博識と覚知は、必ずしも一致しないということになりますが、
この箴言をより積極的な意味で解釈するならば、
以下のように考えることもできるでしょう。
博識というのは、多くの知識を持っているということですが、
真理は一つなどと言われるように、
覚知、すなわち、真理に関する核心的な知識は、その本性上、
一つとは言わないまでも、数としてはあまり多くはない、
少数の精錬された知識ということになります。
したがって、
博識と言われる場合、その知識の多くは、
真理に関わるような核心的知識ではない、
言わば、雑学のような表面的知識で占められることになりますが、
このように、多くの雑多な知識を知り、
さらに、その量をもっと多くすることだけを求めることは、
知の価値を量の多さのみに求め、
ひたすらより多くの知識をより早く求めようとすることにつながり、
思考としての深さや、自分自身の頭でじっくり考え続けるといった、
知の質の面が疎かにされてしまう危険性があると考えられます。
つまり、
真理に関係のない雑多な知識は、
それがあることによって、かえって、心が惑わされ、
核心である真に重要な知から遠ざかり、
かえって、
真理へと至るための真摯な探究の妨げとなってしまうこともありうる、
ということです。
少し別の視点から言うと、
多くの既存の知識を無批判に収集していくことによって、
知識の量が増えていくのにしたがって、
凝り固まった既存の知識が邪魔をして、
新しい考え方を受け入れる柔軟さを失っていくとも考えられますし、
それらの大量の既存の知識が
固定観念となって、新しい思考の形成を阻害することで、
自分の内から新しい発想やアイディアが生まれることをも妨げてしまう、
と考えることもできるでしょう。
つまり、
知識は何でも増えれば増えるほど良いというわけではなく、
多くの既存の知識がはびこることによって、かえって、
新しい知識やアイディアが新たに花開く可能性を摘み取ってしまう、
というように、
博識であるということが、かえって、
新たな知識が生まれるための障害となってしまう、
という側面もあるということです。
制約としての能力
このことは、
知、そして、能力全体の問題として、
以下のように考えることもできるでしょう。
例えば、
目が見えるというのは、
一つの能力ではありますが、
逆に、見えることによって、
目に見える物の世界にだけ捕らわれて、
かえって
気づきにくくなってしまうことがあるように、
すべての能力は、
力であると同時に、制約であるとも捉えることができます。
目が見えれば、見える物に捕らわれ、
足が速ければ、速さを競うことに捕らわれ、
人を騙す能力、人を傷つける能力に長けていれば、
その能力によって、自らの欲望を不当に満たそうとする悪へと誘われる、
それと同じように、
知識がある者は、自らの知に捕らわれるということです。
「知は力なり」と言われるように、
博識は、一つの能力であり、力でもあるのですが、
それは同時に、一つの制約である、
と考えることもできるということです。
知を自己批判する視点
そして、
既存の多くの知識を有しているということは、
人は、そのことによって心理的に優位に立ち、
自らの博識を誇るようになり、
自分自身の知に慢心する気持ちへと誘われることをも意味します。
自らが知者と呼ばれることに慢心し、
自らの知の上にあぐらをかくことで、
人は、真理への真摯な探究を疎かにするようになり、
むしろ、真理から遠ざかることになってしまうということです。
このように、
自らが有する知について
自己批判する視点を投げかける態度は、
ソクラテスの「無知の知」へもつながる思考である
とも考えられます。
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