真理へ至るための3つの道③デカルトの方法的懐疑と夢の中の認識

前回に引き続き、

今回も、真理へ至るための二つ目の道である、
否定の道」を歩んでいくわけですが、

論理的な思考形式としての
否定の道について考えるときに、

忘れてはならないのが、
デカルト方法的懐疑です。

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すべての認識を根こそぎに覆す

17世紀のフランスの哲学者

デカルトは、

その主著である『省察』の冒頭部で、
哲学的真理を探究していく自分の決意を、

以下のように語ってます。

もし、学問において、
堅固で揺るぎないものを打ち立てようと望むのならば、

一生に一度は、すべてを根こそぎにして覆し、
最初の土台から改めて始めなければならない。

(デカルト『省察』「第一省察」の冒頭部)

つまり、デカルトは、

哲学的真理を探究するためには、

自分が今までの人生で学んできた経験的な知識や、
当たり前のように思っていた常識

一度、根こそぎに覆して、
そのすべてを捨て去り、

自分がもっている認識のすべてを、

徹底的に、
疑って、疑って、疑い抜いたうえで、

それでもなお、残っている
絶対的に確実な真の認識から、

哲学的真理の探究を始めるべきだ、

と考えたということです。

このデカルトの徹底的な懐疑は、

真なる認識を見つけ出すための
方法」としての懐疑、なので、

方法的懐疑」と呼ばれます。

夢の中での幻の身体の認識

そして、デカルトは、

この「方法的懐疑」において、

目で見たこと耳で聞いたこと、といった、
外界についての知覚は、

見間違え、聞き間違えといったことがある以上、
絶対的に確実な認識とは言えないとし、

さらに、

熱い、寒いといった、身体感覚、あるいは、
自分の身体がここにあるという、

自らの肉体の認識でさえ、
以下のような議論によって、懐疑の対象としました。

例えば、

夢を見ているとき、その当人には、
自分がどこか別の場所で、身体をもって、さまよっている、
という認識があるわけですが、

それが夢の中の出来事である以上、

その場所の認識も、身体の認識
実際には存在しない偽りの認識です。

そして、通常、

夢は覚めてみなければ、
それが夢だったと、気づくことはできません。

人は、夢の中では、
その世界が現実だと思い込んでいて、

後になって、目覚めてから、
先ほどの認識は、すべて夢の中の出来事だったので、
実際には存在しない、誤った認識であったと
その判断を改めることになります。

そして、そうである以上、

私が、今、ここにこうして
自分の身体をもって、椅子に座っている
といった認識自体が、

すべて夢で、幻で、偽りの認識であるかもしれない
ということを、完全に否定しきることは誰にもできない、

ということになるのです。

こうして、 デカルトは、

外界の知覚も、身体の感覚も、
自らの身体の存在すら、そのすべてを疑い尽くしていくのですが、

このような徹底した、方法的懐疑の試みの末に、

デカルトは、

そのように、すべての認識と存在を疑い尽くしても、
なお、絶対的に確実な認識として残るものがただ一つある。

それは、

そのような懐疑を思考し続けている
思考する者、思惟する者としての私の存在自体である、

ということに思い至ります。

私が疑っているということ自体は、
どのような徹底した懐疑によっても疑うことができない、

なぜならば、

まさに、そのように、
私が実は、疑ってなどいないのではないか?という
疑いをもつこと自体が、

私が今、疑う者懐疑を思考する者として、
確実に存在しているということの

確固たる証明になってしまうのだから、

というわけです。

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哲学の第一原理、コギト・エルゴ・スム

このようにして、デカルトは、

この世界のすべての存在が、
夢の中の存在と同じように、

実体のない幻であったとしても、

その場合でも、

思考する者思惟する者、すなわち、
精神としての私は確実に存在する、

私が
思考する者思惟する者として、
存在しているということだけは、

疑いようのない真実である、

という、

絶対に確実な真の認識を見いだすに至ります。

そして、彼は、

この絶対的に確実で真である認識を

哲学の第一原理

と名づけ、

同じくデカルトの著作である『方法序説』において、
この絶対的に確実な真なる認識は、

我思う、ゆえに、我在り

Je pense, donc je suis、このフランス語原文のラテン語訳が

cogito ergo sum コギト・エルゴ・スム

という命題で表現されています。

このようにして、デカルトは、

絶対的に真なる認識を見つけ出すために、
すべての存在を疑って、疑って、疑い尽くす、という

方法的懐疑」により、

論理的形式としての、
否定の道を極限まで歩み切ることによって、

デカルトが探究のはじめに求めていた、

哲学的真理を探求し、
堅固で揺るぎないもの」を打ち立てていくための、

確固たる最初の土台」を手にし、

絶対的に確実な真理の一つ

見いだすに至ったのです。

・・・

このシリーズの次回記事:
真理へ至るための3つの道④胡蝶の夢とデカルトとの方向性の違い

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