テミストクレスのペルシアへの亡命と毒杯による死の逸話:ペルシア戦争を勝利に導いた二人の将軍の最期②
前回書いたように、紀元前480年のサラミスの海戦とその翌年のプラタイアの戦いという海と陸での二つの決戦を制することによって、ペルシア戦争におけるギリシアの勝利を導いた二人の将軍のうち、
プラタイアの戦いにおいてギリシア陸軍を勝利へと導いたスパルタの将軍であるパウサニアスは、その後、ペルシアとの密通を疑われることによって、
青銅のアテナ神殿の中に閉じ込められて飢えと渇きによって衰弱して力尽きるという悲惨な死を遂げることになります。
それでは、サラミスの海戦においてギリシア海軍を勝利へと導くことによって、こうしたペルシア戦争におけるギリシア軍の勝利を導いたもう一人の英雄である
アテナイの将軍であるテミストクレスのその後の人生はどのように展開していくことになっていったのかというと、彼の人生もまた、ペルシア帝国との因縁のなかで大きく翻弄されていくことになっていったと考えられることになるのです。
テミストクレスによるアテナイの城壁の再建とスパルタとの不和
紀元前480年のサラミスの海戦においてギリシア艦隊を勝利へと導いたアテナイの将軍にして政治家でもあったテミストクレスは、
その後、救国の英雄としてアテナイ市民たちに迎え入れられることによって、アテナイの指導者となり、ペルシア戦争の際に破壊された都市の再建へと取り組んでいくことになります。
そして、
こうしたアテナイにおける都市の再建の事業を進めていく際に、テミストクレスは、敵国の軍隊によって再び祖国の土地が蹂躙されることがないように、アテナイの都市を取り囲む城壁の再建へと着手していくことになるのですが、
その際、アテナイとライバル関係にあったスパルタは、ペルシア軍が再び攻めて来た時に、アテナイの城塞を拠点として利用される可能性があるということを口実に、城壁の再建計画を中止するように圧力をかけてくることになります。
そして、
テミストクレスは、こうしたスパルタからの干渉に対して、サラミスの海戦の際にペルシア軍を欺いた時のように、再び一計を案じることになり、
スパルタ人たちに対しては、貴殿たちの了承が得られるまで城壁の再建計画を強行する気はないと述べたうえで、心配ならば大使を遣わしてアテナイまで様子を見に来るがいいとまで言って油断させることにします。
そして、その後、アテナイでは、
スパルタからの監視の目がなくなったうちに城壁の再建が急ピッチで進められていくことになり、スパルタからの大使がアテナイに到着すると、いろいろと理由をつけて大使の身柄を軟禁状態に置くことによって時間を稼いだうえで、
その間に、テミストクレスはアテナイの城壁の再建したうえで、都市の守りをさらに強固なものとする十分な防備を整えることになります。
しかし、その一方で、
自分たちが欺かれたことを知ったスパルタ人たちは、テミストクレスに対して深い恨みを抱いていくことになり、両者の間には大きな禍根が残されることになったと考えられることになるのです。
貴族派のキモンとの政争と陶片追放によるアテナイからの追放
そして、その後、
アテナイにおいては8年ほどの間、テミストクレスによる統治が続いていくことになるのですが、
彼の自らの政治手腕を過信する独裁的な政治手法に対して、民主的な政治のあり方を求めるアテナイ市民の間では少しずつ不満が高まっていくことになります。
そして、その後、
スパルタの支援を受けていた貴族派の将軍の一人であり、マラトンの戦いを勝利へと導いたギリシアの英雄であるミルティアデスの息子でもあったキモンとの政争に敗れることになったテミストクレスは、
紀元前482年頃に行われたオストラキスモスすなわち陶片追放と呼ばれる秘密投票に基づく追放制度に基づいて、ついにアテナイから追放されてしまうことになるのです。
アルゴスからマケドニアへと至るテミストクレスの逃避行の旅
そして、その後、
アテナイを離れて、ギリシア南部のペロポネソス半島東部に位置する都市国家であったアルゴスへと亡命することになったテミストクレスは、
この地において再起を目指して、アテナイへと弁明の手紙を送り続けていくことになるのですが、
それに対して、アテナイに残る政敵たちとその背後にいるスパルタなどの国々は、テミストクレスの復活の目を完全に断つために、テミストクレスを捕縛するための追っ手をアルゴスへと放つことになります。
そして、
自らの弁明が受け入れられることがないばかりか、命までもが狙われかねない状況へと陥ったことをさとったテミストクレスは、すぐに、海路を通って、ギリシアの主要都市からは遠く離れたギリシア本土の北西に位置するコルキュラ島へと逃亡することになり、
そこから、さらに、島の対岸に位置するエペイロスへと渡り、この地において、友人たちの手によって送り届けられた家族たちと合流したうえで、さらに北方のマケドニアを目指して逃避行を続けていくことになるのです。
テミストクレスのペルシアへの亡命と毒杯による死の逸話
そして、その後、
もはやギリシア世界に自分が生きるべき場所は残されていないことを知ったテミストクレスは、現在のトルコが位置するアナトリア半島へと渡り、アテナイの宿敵であったペルシアの領地の奥深くへと入っていくことになります。
サラミスの海戦においてペルシア艦隊を崩壊へと導いた敵軍の大将であったテミストクレスの首には、ペルシア王から多額の懸賞金がかけられていたのですが、
そうした懸賞金目当ての人々の目から逃れるために、テミストクレスは、友人に頼んで女性用の馬車を用意してもらったうえで、馬車の中に身を隠してまで、
イチかバチか宿敵であるペルシア王の庇護を求めるために、ペルシアの王都を目指して最後の逃避行を試みることになるのです。
そして、すでに、
ペルシア戦争におけるギリシア遠征を行ったクセルクセス1世が紀元前465年に側近の部下によって暗殺されたことにより、息子であるアルタクセルクセス1世の代になっていったとも言わるアケメネス朝ペルシアにおいては、
敵軍の将であるテミストクレスが自らの首を敵国の王である自分のもとに預けに来たことにペルシアの大王は非常に驚いたものの、
その大胆さと潔さに感銘を受けた大王は、テミストクレスが懸賞金のかけられていた自らの首を自分自身の手で持って来たという理由で彼に賞金を与えたうえで、王の庇護のもと、ペルシア帝国の領内で暮らすことを認めることにします。
そして、その後、テミストクレスは、
ペルシアの大王からナトリア半島の南西部に位置するマグネシアの地を与えられることによって、この地において長寿を全うすることになったとも伝えられているのですが、
その一方で、晩年のテミストクレスについては、もう一つ別の逸話も語り伝えられていて、
ある時、すでに老齢の域に達していたテミストクレスが王都に呼ばれると、ペルシアの大王から、再びギリシア遠征へと向かう際にペルシア艦隊の参謀の任につくことによって、
自分のことを追放したアテナイ人たちへの復讐を果たすように求められることになります。
しかし、
ペルシア王からの庇護を受けることになった後も、アテナイの将軍としての誇りを持ち続けていたテミストクレスは、自分が祖国から追放されて捨てられた身であるからといって、祖国に仇をなしてアテナイの人々を裏切ることを潔しとせず、
かといって、自分の命を救ってくれた恩義のあるペルシアの大王の命に背くことも不名誉となると考えたテミストクレスは、
その場ですぐに自らの身に隠し持っていた毒杯をあおって自死を遂げることになったとも語り伝えられています。
そして、その後、
こうしたテミストクレスの誇り高き死に様を目にしたペルシアの大王は、死してなおテミストクレスのことを一層高く評価して、彼のことを強く賞賛したとも伝えられていて、
後に残されることになったテミストクレスの家族たちは、その後もペルシアの大王の手によって手厚く庇護されていくことになったと伝えられているのです。