サラミスの海戦におけるテミストクレスの知略とデルフォイの神託における「木の城壁」の解釈をめぐる運命の分かれ道

前回書いたように、ペルシア戦争における最大規模の戦いが繰り広げられていくことになるクセルクセス1世による第三回ギリシア遠征においては、

紀元前480年に起きたテルモピュライの戦いアルテミシオンの海戦において、ペルシア軍は多大な犠牲を払いながらも、スパルタを中心とするギリシア陸軍と、アテナイを中心とするギリシア海軍に対して勝利をおさめることになります。

そして、こうしてギリシア軍側の防衛線を突破したペルシアの大軍は、そのまま雪崩を打ってテーバイアテナイといった古代ギリシアの主要都市が位置するギリシア中部のボイオティアからアッティカ半島へと至る地域へと侵攻を開始していくことになるのです。

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ギリシア艦隊のサラミス島への集結とテーバイの降伏

サラミスの海戦までのペルシア艦隊の航路とコリント地峡との位置関係

テルモピュライの陥落の知らせを聞いたギリシアの諸都市では、

もともとペルシア側に対して宥和的な姿勢を見せていたテーバイなどの都市国家がすぐにペルシア軍のもとへと降伏していくことになり、

テーバイを中心とするボイオティア地方を拠点とすることによって態勢を整えたペルシア軍は、その後、ペルシア戦争におけるギリシア側の中心都市であったアテナイへと向けて侵攻を続けていくことになります。

そして、こうした陸上におけるペルシア軍の動きと時を同じくして、

テルモピュライの東方に位置するエーゲ海の海上においても、エウボイア島北方のアルテミシオン沖から撤退を開始したアテナイ艦隊を中心とするギリシア海軍は、

アテネの外港であったピレウスの西方に位置する小島であるサラミス島の近海へと全軍を集結させていくことになるのです。

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デルポイの神託における「木の城壁」の解釈をめぐる運命の分かれ道

そして、その頃、

ペルシアの大軍が迫るアテナイにおいては、国家の存亡の危機において、国の行く末を占うために、デルポイの地にあったアポロン神殿において神託の言葉が求められることになり、

こうしてアテナイの市民たちへと下されることになったデルポイの神託においては、以下のような言葉が語られることになったと伝えられています。

「すべてを見通しているゼウスは、ただ一つの木の城壁を汝らに与えるであろう。それは堅固にして決して壊されることがなく汝と汝の子らを守ることになる。」

そして、その後、アテナイの市民たちは、

こうしたデルポイの神託において下されることなった堅固して壊されることのない木の城壁とは、いったい何のことを意味しているのかという神託の言葉の解釈をめぐって議論が行われていくことになり、

ある者たちは、木の城壁とは、アテナイの都市の中心部に位置するアクロポリスと呼ばれる小高い丘にかつて築かれていた木製の柵によって囲まれていた砦や城壁のことを意味していると考えて、アクロポリスでの籠城を試みことになります。

そして、それに対して、

別の者たちは、木の城壁とは、アテナイを守るためにサラミス島に集結していた木製の軍艦であると考えて、女性や子供や老人たちはサラミス島や近隣の都市へと一時的に疎開させたうえで、男たちはみな船へと乗り込んで、ペルシアの艦隊を海上において真正面から迎え討つ決意を固めることになります。

そして、こうしたデルポイの神託における「木の城壁」という言葉の解釈をめぐる行動の違いが、彼らのその後の運命を大きく分けていくことになるのです。

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アクロポリスの惨劇とテミストクレスの知略

そして、ペルシアの大軍が陸路からも海路からもアテナイの近くにまで迫って来るなか、

ギリシア海軍では、サラミスを離れて、逃げ道のあるより広い海域であるコリント地峡の近海にまで撤退することを求める意見が強まっていくことになります。

そして、その後、

アテナイ市内へと侵攻したペルシア陸軍は、ほとんど無抵抗に近い状態で市内を制圧したのち、偽りの木の城壁を信じてアクロポリスへと立て籠もっていたアテナイ市民たちをすべて殺戮し、アテナイの守護神である女神アテナを祀るパルテノン神殿を破壊したうえで、アテナイ市内をことごとく蹂躙していくことになります。

こうしたアテナイにおける惨状を目にして海上の兵士たちの間でも恐慌状態が広がっていくなか、ギリシア艦隊においては以前にも増してコリントへの撤退を求める意見が強まっていくことになるのですが、

そうしたなか、この戦いにおける勝利への道筋サラミスの地での決戦に見いだしていたアテナイ艦隊を率いるテミストクレスは、自らの知略によって味方をも騙す一計を案じることになります。

ギリシア艦隊がコリントへの撤退を決断しようとするなか、テミストクレスはギリシアの敵であるペルシア艦隊へと自らの使者を遣わして、

ペルシアの大艦隊の威容を目にして恐れをなしたギリシア艦隊はコリントへと逃走しようとしているので、その退路を断つことができればはかつてない大勝利がもたらされることになるという密告を行うことにします。

そして、

こうしたテミストクレスの密告をギリシア艦隊の息の根を止める絶好の機会と捉えたペルシア海軍は、

艦隊の一部をサラミス島の反対側へと移動させることによって、ギリシア艦隊の退路を断ち、サラミス水道に停留しているギリシア艦隊を完全に包囲することになります。

そして、

自らの退路を断たれることになったギリシア艦隊は、テミストクレスの思惑の通りに、サラミスの地での決戦を行うことを余儀なくされることになり、

こうして、紀元前480年の9月の末に、ペルシアの大王クセルクセス1世によって遣わされたペルシアの大艦隊と、

テミストクレスが率いるアテナイ艦隊を中心とするギリシア艦隊との最後にして最大の決戦であるサラミスの海戦が開戦の時を迎えることになるのです。

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サラミスの海戦におけるペルシア艦隊の大敗とクセルクセス1世の帰還

こうした紀元前480年に行われたサラミスの海戦においては、ギリシア艦隊の兵力はアテナイ艦隊の180隻の軍艦を中心に全軍を合わせても370隻ほどの軍艦の数しかなかったのに対して、

これを包囲するペルシア艦隊の兵力は、ギリシア艦隊の側のほぼ2倍にあたる700隻前後の軍艦の数があったと考えられています。

しかし、

かねてからこうしたペルシア戦争におけるペルシア艦隊との海上における最終決戦のことを見通して200隻もの大艦隊の建造を行っていたアテナイの指導者であったテミストクレスは、こうした状況においても、

狭い水路にあたるサラミス水道では、ペルシアの大艦隊を十分に展開させる余地がないため、数において圧倒的に劣るギリシア艦隊でもペルシアの大艦隊に対して互角以上に戦うことができると考えていたのです。

そして、いざ戦いがはじまってみると、

テミストクレスの思惑通りに、狭い水道へと殺到してきたペルシアの大艦隊は、ギリシア艦隊からの激しい反撃を受けるなか、味方同士で衝突して沈没してしまう軍艦もあるなど混乱状態に陥ってしまうことになり、

その後、戦いの最中に西から吹いてきた風が次第に強くなり、やがて暴風となることによってペルシア艦隊の混乱はますます激しくなっていくことになります。

そして、その後、

外海へと逃げ出していくペルシアの軍艦に対してギリシア艦隊が追撃を加えていくことによって、サラミスの海戦アテナイ艦隊を中心とするギリシア側の大勝利に終わることになるのですが、

こうしたサラミスの海戦におけるギリシア艦隊の側の損害はわずか40隻ほどの軍艦の数にとどまったのに対して、ペルシア艦隊の側の損害はその5倍以上の数にあたる200隻以上の軍艦が失われることになったと伝えられています。

そして、その後、

サラミスの海戦におけるペルシアの大艦隊の大敗を見せつけられることになったアケメネス朝ペルシアの大王であるクセルクセス1世は、

そのまま戦意を喪失して、残されたペルシアの軍艦と共に、ペルシア本国への帰途へとつくことによって、ギリシアの地を去っていくことになるのです。

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