善意志とは何か?カントの倫理学における「無条件に善いこと」としての善意志の定義と道徳法則との関係
哲学史において近代哲学の祖として位置づけられることもある18世紀のドイツの哲学者であるカントの倫理学の議論においては、
善意志と呼ばれる人間の心における善なる意志の存在に基づいて、義務倫理学あるいは実践哲学などと呼ばれる倫理学の体系が構築されていくことになるのですが、
それでは、
こうした善意志と呼ばれる概念は、カントの倫理学における議論のなかでは、具体的にどのような意味を持った概念として位置づけられていると考えられることになるのでしょうか?
カントの倫理学における「無条件に善いこと」としての善意志の定義
そもそも、
善意志、すなわち、ドイツ語におけるguter Wille(グーター・ヴィレ)という言葉は、もともと、ドイツ語において善意や好意といった意味を表す日常的な言葉であったと考えられることになるのですが、
カントの倫理学の議論においては、
こうした善意志(guter Wille)と呼ばれる概念は、より厳密で徹底的な意味における善の概念、すなわち、人間におけるあらゆる善いもののなかで、「無条件に善い」と言えるもののことを意味する概念として定義されていくことになります。
つまり、
善意志とは、一言でいうと、
人間におけるあらゆる行為や発言、思考や感情のなかで、「無条件に善い」といえる真の意味で善い意志のあり方のことを意味する概念であり、
人間が行う様々な行為について、それが悪しき行為なのか善き行為か、あるいは、それが表面的には他者や社会に対して良い影響を及ぼす善き行為に見えているとしても、それが表面だけで内実の伴わない偽善的な行為であるのか真の意味で善い行為であると言えるのかといった
人間が行うすべての行為の善悪は、その行為が善意志に基づく行為であるか否かという観点から適切な判断を下していくことができると考えられることになるのです。
カントの倫理学における善意志と道徳法則との関係
それでは、
そうした人間におけるあらゆる行為や発言、思考や感情のなかで、こうした「無条件に善いこと」という善意志の定義に当てはまる具体的な存在とはいったい何なのか?ということですが、
それについてカントは、
たまたま行った行為の結果が他者や社会において良い影響を与えることになったといった結果主義や功利主義に基づく行動の良し悪しが善意志とは結びつかないことはもちろん、
知識や能力、財産や権力、健康といった一般的に善いとされる様々な性質、あるいは、思いやりや優しさといった善なる感情についても、
それは、「もし~であるならば善いこと」という条件つきの善いことにとどまるものに過ぎないという意味において、善意志にかなう無条件な善のあり方の内からは退けていくことになります。
そして、結局、
そうした「無条件に善いこと」としての善のあり方は、
いついかなる場合でも常にそうすべきであるという「無条件に~せよ」と命じる定言命令の形で示されている道徳法則に従うことこそがそうした善意志が実現されている状態であると結論づけられていくことになるのです。
・・・
以上のように、
義務倫理学や実践哲学と呼ばれるカントの倫理学の議論においては、
善意志と呼ばれる概念は、人間におけるあらゆる行為や発言、思考や感情のなかで、「無条件に善い」といえる真の意味で善いもののことを意味する概念として定義されていくことになります。
そして、より具体的には
そうしたカントの倫理学における善意志の存在は、
「無条件に~せよ」と命じる定言命令の形で示される道徳法則の存在そのものの内に求められていくことになると考えられることになるのです。
・・・
次回記事:カントの倫理学において善意志の本質が道徳的な感情ではなく道徳法則の内に求められる具体的な理由とは?
前回記事:知性概念の神の認識の内への上昇と人間の認識の内への没落の歴史、近代哲学における知性概念の没落と自然科学の萌芽
「カント」のカテゴリーへ