能動知性と受動知性の違いとは?アリストテレスの認識論における両者の位置づけと不動の動者としての神の存在との関係
前回の記事では、アリストテレス哲学の存在論の議論において登場する形相と質料あるいは現実態と可能態といった概念と、能動性と受動性といった概念との関係性について詳しく考察してきましたが、
アリストテレス哲学における能動性と受動性の区分は、こうした事物の存在のあり方のことを意味する概念についてだけではなく、
人間や神の認識のあり方における知性の存在においても、こうした能動性と受動性という二つの概念に基づく区分が進められていくことになります。
アリストテレスの認識論における受動知性と能動知性の位置づけ
まず、
アリストテレス哲学における認識論の議論においては、
人間の知性における知覚や感覚といった認識の働きは、外界に存在する知覚対象となる事物自体が持っている知覚内容が人間の魂における知覚能力を介して受容されることによって成立していると捉えられていくことになるのですが、
そういった意味では、
こうした人間の知性における知覚や感覚といった認識の働きは、外界から与えられる知覚内容をそのまま受容するという受動的な知性の働きとして捉えられることになり、
アリストテレス哲学においては、そうした知性の働きは、作用を受ける知性(ヌース・パテーティコス、nous patethetikos)すなわち受動知性や受動理性あるいは可能知性と呼ばれる知性のあり方として捉えられていくことになります。
アリストテレスの認識論においては、
こうした人間の知性における知覚や感覚といった心の働きのあり方だけでなく、より抽象的で論理的な心の働きのあり方である思考活動などについても、
それは何らかの外界からの刺激をきっかけとして新たな思考が生み出されていくことになるといった意味において、基本的には前述した作用を受ける知性すなわち受動知性のうちに位置づけられていくことになるのですが、
その一方で、アリストテレスは、
そうした受動的に引き起こされることになる思考活動の働きを担う知性の存在が現実態として成立するためには、そうした受動的な知性に対して直接的に働きかける作用を持った別の知性の働きが必要になるとも考えていて、
そうした知性の働きは、作用する知性(ヌース・ポイエーティコス、nous poietikos)すなわち能動知性や能動理性と呼ばれる知性のあり方として捉えられていくことになり、
そうした人間の知性における受動知性の存在の根拠となっている能動知性の存在の起源は、最終的には、あらゆる人間的な知性のあり方の根源にある神的な知性のあり方のうちへと求められていくことになるのです。
神的な知性としての能動知性と不動の動者としての神の存在との関係
以上のように、
アリストテレス哲学における認識論の議論においては、
人間の知性における感覚や知覚といった受動的な認識活動のあり方が作用を受ける知性すなわち受動知性として位置づけられているのに対して、
神的な知性におけるあらゆる知性の存在の根拠となる能動的な知の働きのあり方は作用する知性すなわち能動知性として位置づけられていくことになります。
以前の記事の中で、アリストテレス哲学の存在論の議論における神の存在は、
自らは他の何ものによっても動かされず、他のあらゆるものを動かす究極の原因となる不動の動者の存在のうちに求められることになり、
それは、質料と形相あるいは可能態と現実態という存在の様相の議論においては、純粋形相であると同時に純粋現実態としても位置づけられる存在として捉えられていくことになると書きましたが、
そういった意味では、
こうしたアリストテレス哲学における不動の動者としての神の存在は、
自らが存在するのにほかのいかなる存在のことも必要とせず、ほかのいかなる存在によっても作用を受けることがない能動知性としての純粋形相において存在する純粋現実態として捉えることができる存在として位置づけられることになると考えられることになるのです。
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次回記事:唯物論としてのアリストテレス哲学の解釈、『魂について』(デ・アニマ)における生命原理としての魂の定義と身体との関係性
前回記事:アリストテレス哲学における能動性と受動性の捉え方、形相と質料および現実態と可能態における能動と受動の関係
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