アンセルムスとデカルトにおける神の存在論的証明の違い、完全者としての神の存在という神の定義に基づく神の実在性の論証
存在論的証明(本体論的証明)とは、神の存在証明の議論のなかでも、個々の存在者の個別的・具体的な存在のあり方ではなく、存在そのもの、すなわち、存在という概念本体についての探究が進められていく論証のあり方のことを意味する言葉ですが、
こうした神の存在論的証明に分類される代表的な論証の議論としては、
11世紀のイギリスのスコラ哲学者にして神学者でもあるアンセルムスによる存在論的証明の議論と、
17世紀のフランスの哲学者であるデカルトによる存在論的証明の議論を挙げることができると考えられることになります。
それでは、こうした二つの神の存在論的証明の議論の間には、互いにどのような点において具体的な論証のあり方の違いを見いだすことができると考えられることになるのでしょうか?
アンセルムスによる神の存在論的証明の議論のまとめ
まず、
アンセルムスとデカルトのどちらの神の存在論的証明の議論においても、そうした存在論的証明の対象となる神の存在は、全知全能にして完全なる存在として定義されることになるのですが、
こうした二つの存在論的証明の議論のうちの前者であるアンセルムスによる神の存在論的証明の議論においては、
そうした完全者としての神の存在は、「それよりも大きいもの(偉大なもの)を考えることができないもの」であるとして解釈し直されていくことになります。
そして、
そうした「それよりも大きいものを考えることができないもの」としての神が人間の意識や想像の世界にのみ存在する仮想的な存在である場合と、実際の現実の世界においても存在する現実的な存在である場合とでは、
神の存在が人間の想像の世界の内だけではなく現実にも存在する場合の方が、想像の世界における神の存在に現実の世界における神の存在が足し合わされる分だけ、その存在の総和の大きさがより大きくなると考えられることになります。
そして、ここで、
仮に、神の存在が人間の想像の世界の内においてのみ存在する仮想的な存在であると仮定すると、前述した神の存在の総和の大きさから現実の世界における神の存在の分が差し引かれることになり、その分だけ神の存在の大きさが小さくなってしまうと考えられることになりますが、
このことは、最初に述べた「それよりも大きいものを考えることができないもの」という神の定義と矛盾することになってしまうので、
背理法※の論理によって、もう一方の神は現実の世界においても実際の存在する現実的な存在であるという仮定の方が必然的に真であると論証されることになるのです。
※背理法:ある命題と正反対の命題が真であると仮定して、そこから矛盾を導くことによって、もう一方の元の命題が真であることを証明する論法。
デカルトによる神の存在論的証明の議論のまとめ
そして、それに対して、
詳しくは前回の記事で書いたように、デカルトによる三つの神の存在証明の議論のうちの三番目の議論として登場するデカルトによる神の存在論的証明の議論においては、
そうした完全者としての神の存在は、「完全な能力を持つ存在者」として解釈されたうえで、
そうした「完全な能力を持つ存在者」としての神の観念のうちには、必然的にそれとは不可分なものとして、「存在」という属性が含まれるという議論が展開されていくことになります。
神の存在を「完全な能力を持つ存在者」として定義すると、そうしたあらゆる意味において完全な能力を持つ存在者は、
自らの手によって自分自身の存在をも生み出してしまうような完全な能力を持った存在者であると考えられることになります。
したがって、
そのような「完全な能力を持つ存在者」としての神は、自らの内に自分自身の存在をも生み出すような完全なる能力を有している以上、
そうした完全な能力を持った存在者としての神は必然的に存在すると結論づけられることになるのです。
アンセルムスとデカルトにおける神の存在論的証明の共通点と相違点
以上のように、
こうしたアンセルムスとデカルトによる神の存在論的証明の議論においては、
両者とも全知全能にして完全なる神、すなわち、完全者としての神の存在という神の定義に基づいて神の存在証明の論証を組み上げているという点においては、互いに共通していると考えられることになります。
そして、その一方で、
前者のアンセルムスによる神の存在論的証明の議論においては、
完全者としての神の存在の定義の内に含まれている「存在」や「完全性」といった概念自体の解釈に基づいたうえで、
背理法といった論理学的な技法を駆使した巧妙な論理展開を通じて、神の実在性の論証が行われていると考えられることになるのですが、
それに対して、
後者のデカルトによる神の存在論的証明の議論においては、
完全者としての神の存在の定義のなかでも、特にそうした完全なる存在者が有する「能力」へと議論の焦点が定められたうえで、
そうした完全者としての神が有する完全なる能力のあり方から直接的に神の実在性の論証が行われているといった点に、
両者における神の存在論的証明の議論の進め方の具体的な違いを見いだすことができると考えられることになるのです。
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次回記事:カントによる神の存在証明の否定、観念としての「存在」と現実における「実在」を混同する存在論的証明における誤謬推理
前回記事:デカルトによる神の存在証明③完全な能力を持つ存在者としての神の存在証明の議論
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