聖徳太子と諸葛孔明の天下三分の計の関係とは?常識的な国家観を打ち破る柔軟な発想としての両者の思想の共通点
前回書いたように、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という聖徳太子の時代の日本の朝廷から中国の皇帝へと送られた国書の文言においては、
そうした日本の天皇と中国の皇帝の両者は、互いに同じ「天子」という称号で呼ばれる存在である問う点において、互いに独立した対等な関係にあるという主張がなされていると考えられることになります。
そして、このように、
日本の天皇が「日出づる処の天子」であるのに対して、中国の皇帝が「日没する処の天子」であると呼び表されることによって、
そこでは、天下において二人の天子が同時に存在するという主張がなされているとも考えられることになるのですが、
こうした天下において、それを統べる至高の存在としての天子が複数存在することを認めるという考え方を説いた人物は、歴史上、聖徳太子がはじめての人物であったというわけではなく、
同様の思想は、三国志で有名な諸葛孔明の思想のうちにも見いだすことができると考えられることになります。
孔明の天下三分の計の思想によって生まれた古代中国の三皇帝の時代
諸葛孔明(しょかつこうめい)とは、本名は諸葛亮(しょかつりょう)、より一般的な呼び名である字(あざな)では孔明(こうめい)と呼ばれている
3世紀頃の古代中国における魏・呉・蜀の三国時代において、蜀の劉備(りゅうび)のもとに仕えた軍師の名前であり、
孔明は、中国ではその策が献上された土地の名前をとって隆中策(りゅうちゅうさく)、日本では天下三分の計と呼ばれる戦略を説いていくなかで、
中国全土の北半分にあたる華北全土を制圧した魏の曹操(そうそう)に対抗するために、強大な勢力である魏と直接覇を競い合っていたずらに国力を消耗するのではなく、
統一すべき天下を三つに分けたうえで、そのうちの一つの天下を治めることによって充足を得るという天下についての新たな考え方を示していくことになります。
そして、
その後、しばらくの間は、こうした孔明の天下三分の計の戦略に沿っていく形で、中国における魏・呉・蜀の三国が鼎立する三つの独立勢力の均衡状態が続いていくことになり、
実際に、曹操の後を継いで魏王となった曹丕(そうひ)が220年に後漢の献帝(けんてい)からの禅譲によって皇帝の座についた時には、
それに呼応する形で、蜀の王であった劉備も翌年の221年に皇帝として即位することになり、
そののち、しばらく時をおいて、229年には呉の孫権も正式に帝位につくことを宣言することになるのですが、
このように、
三国志の後半の時代においては、諸葛孔明が説いた天下三分の計の思想に基づいて、中国と呼ばれる一つの領域の内に、魏の曹丕と、蜀の劉備、そして、呉の孫権という三人の皇帝、すなわち、三人の天子が並び立つ状態が続いていくことになったと考えられることになるのです。
常識的な国家観を打ち破る柔軟な発想としての聖徳太子と諸葛孔明の両者の思想の共通点
ところで、
世界の内で様々な国が互いに独立した状態で平和的に共存し、大きな国でも小さな国でも、基本的には対等な関係において国交を結ぶことが当たり前となっている現代の感覚からすると、
こうした孔明や聖徳太子が説いた天下を二つや三つといった複数の領域へと分割していくことができる可分的な存在として捉え、それぞれの天下において、互いに同等な至高の存在として位置づけられる複数の天子が同時に存在することを認めるという考え方は、
取り立てて不自然なところがあるわけでもない、ごく普通の考え方であるようにも感じられてしまうことになるのですが、
そもそも、もともと、
「天子」(てんし)という言葉自体が、天地万物を支配する創造主である天帝(てんてい)に代わって地上の世界全体を統べる者のことを意味する言葉であるように、
孔明が生きていた2世紀や、聖徳太子が生きていた7世紀初頭といった古代の世界においては、
地上を照らす太陽が一つであり、他に代わりがあり得ないように、天下を統べる天子も唯一無二の存在であるというのが当然の考えとなっていて、
そうした天下や天子といった至高の存在を餅を切り分けるようにどんどん分割して、勝手に増やしていってしまうという考え方は、
古代人の感覚からすると、神を冒涜するような不遜な行為であるとも捉えられかねない、かなり違和感のある考え方であったと考えられることになります。
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そして、そういった意味においては、
こうした天下三分の計を考え出した中国の諸葛孔明や、日出づる処の天子という言葉を残した日本の聖徳太子といった人々は、
当時の人々が当たり前のものとして受け入れていた常識的な国家観を打ち破る柔軟な発想を展開させていくことによって、
現代における互いに対等な関係にある独立した多国家の共存状態へと通じるような平和国家の建設へとつながる思想を生み出した先見の明を持った軍師や政治家たちであったと捉えることができるとも考えられることになるのです。
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