隋の煬帝は「日出づる処の天子」という言葉になぜ怒ったのか?辺境の小国の王が中国の皇帝と同じ天子を僭称することの問題
前回書いたように、7世紀はじめの日本においては、崇仏派であった用明天皇の流れをくむ天皇であった推古天皇とその摂政を務めていた聖徳太子による治世のもと、仏教の興隆と大陸文化の導入が広く進められていくことになり、
そうした流れのなか、607年に、小野妹子を使者とする遣隋使の一行が、日本の朝廷からの国書をたずさて、当時の中国の皇帝であった隋の煬帝に謁見することになります。
そして、こうした遣隋使の派遣について記された中国側の史料である『隋書』東夷伝倭国条においては、
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という日本史においては有名な一節ではじまる日本からの国書を読んだ隋の煬帝は、
使者との会見の後に、現代の日本でいう外務大臣のような立場にあった中国の役人にあたる鴻臚卿(こうろきょう)に対して、
「蛮夷(ばんい)の書、無礼なる有らば、復た以て聞する勿(なか)れ」
つまり、非常に野蛮で無礼な言葉が書かれた国書であったので、このような書は二度と自分のもとに取り次いではならないと語って激怒したという記録が残されているのですが、
それでは、隋の煬帝は、上記の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という文言の具体的にどの部分に対して、それを無礼な言葉と感じ、激怒するに至ったと考えられることになるのでしょうか?
東西の方角を表す枕詞としての「日出づる」と「日没する」という表現
そうすると、
普通に現代の感覚で上記の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という文言を読むと、
送り手である日本の側が自分のことをこれから日が昇っていく勢いのある新興国として位置づけているのに対して、
相手方である中国のことをすでに日は高く昇り切っていて、あとは地平線へと向けて落ちていくだけの斜陽の帝国にすぎないといったことを意味しているようにも取ることができると考えられることから、
まずは、こうした「日出づる」と「日没する」という言葉に対して、少し違和感を感じることになると考えられることになります。
しかし、
こうした遣隋使の派遣について記された日本側の主要な史料である『日本書紀』のなかでは、上記の日本から送られた国書の文言は、
「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白(もう)す」
という比喩表現を用いない形で、直接的に東と西という国同士の地理的な関係のみが示される形になっているほか、
例えば、
仏教の主要な経典群のうちの一つである般若経(はんにゃきょう)の経典のなかにおいても、
「日出づる処、是(これ)東方。日没する処、是(これ)西方。」
といった記述があるように、
上記の日本から中国への国書において用いられている「日出づる」と「日没する」という言葉は、
ここでは、単に東西の方角のことを意味する枕詞(まくらことば)的な比喩表現として用いられているだけの言葉であると捉える方が妥当な解釈のあり方であると考えられることになります。
そして、
そうした比喩表現の用い方については、仏教の先進国であった中国の方が当時の日本よりも深く精通した両国の間の共通認識であったとも考えられることになるので、
こうした「日出づる」と「日没する」という言葉自体については、基本的には、中国の皇帝である隋の煬帝を怒らせるような言葉であったと捉えることはできないと考えられることになるのです。
辺境の小国の王が中国の皇帝と同じ天子を僭称することの問題点
それでは、結局、
冒頭で挙げた「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という文言のいったいどの言葉が隋の煬帝の逆鱗に触れることになったのか?ということについてですが、
それは、一言でいうと、
世界の中心に君臨する中国の皇帝に対して用いられる特権的な称号であったはずの天子という称号を、
中国にとっては、帝国の威光がもたらす恩恵にあずかろうとして朝貢しにやってくる属国のような存在にすぎなかった辺境の小国である倭国(日本)が、
自分たちの国を治める長に対しても、中国の皇帝に対するものとまったく同じ「天子」という称号を用いてしまっているという点に対して怒りを覚えたと考えられることになります。
自らの本来の身分を越えて、皇帝や天子などの高貴な称号を勝手に名乗ることを指して、歴史用語においては、僭称(せんしょう)という言葉が用いられることがありますが、
そういう意味では、まさに、
「日出づる処の天子」という文言が含まれている日本からの国書を受け取った中国の皇帝である隋の煬帝は、
大国である中国から見ると、国力においても文化の面においても大きく劣る辺境の小国である倭国の王が、天子を僭称(せんしょう)したことについて激怒するに至ったと考えられることになるのです。
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以上のように、
日本の朝廷から中国の皇帝である隋の煬帝へと宛てられた国書のなかに記されている「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という文言については、
まず、「日出づる」と「日没する」という二つの比喩表現に関しては、
そこに、日本が小さくてもこれから成長していく勢いのある新興国であるのに対して、すでに成長しきってしまった隋は、これから没落していくだけの斜陽の帝国にすぎないといった
日本の方が中国よりも本質的には優れた力を持っているといったことを暗に示すような傲慢さや思い上がりが表されているとするのは、少し無理のある解釈であると考えられ、
こうした表現は、単に東と西という両国の地理的な位置関係を示すための枕詞的な表現として用いられているだけにすぎないと考えられることになるのですが、
それに対して、
「日出づる処の天子」という形で、書の送り主である日本の国主が、中国の皇帝に対して用いられるものとまったく同じ「天子」の称号を勝手に使ってしまったことの方が、相手方である中国にとっては重大な問題となる言葉の使用のあり方であったと考えられることになります。
つまり、そういう意味では、
例えば、こうした「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という文言の前半部分の天子という言葉を王という言葉へと置き換えて、
「日出づる処の王、書を日没する処の天子に致す」
とでもしてさえいれば、恐らくは、隋の皇帝である煬帝を怒らせるようなことはなかったと考えられるのですが、
それとは逆に、上記の文言から「日出づる処」と「日没する処」という比喩表現だけを除いて、仮に、
「東の国の天子、書を西の国の天子に致す」
などと書いていたとしても、こうした「天子」という特権的な称号を、中国にとっては辺境の一小国にすぎなかったはずの倭国の王が勝手に用いてしまっている時点で、
同じように皇帝の逆鱗に触れることになってしまっていたと考えられることになるのです。
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