隋の煬帝が遣隋使を追い返さずに裴世清を使者として遣わした理由とは?当時の東アジアにおける国際情勢と高句麗大遠征

前回書いたように、607に、小野妹子を使者とする遣隋使の一行が、日本の朝廷からの国書をたずさて中国を訪れた際に、

「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という日本側の国書の文言を目にした、当時の中国の皇帝であった隋の煬帝は、

中国の皇帝のことを示す唯一無二の特権的な称号であったはずの天子の称号を、辺境の一小国にすぎないはずの倭国の王が僭称していることを知って激怒したと伝えられています。

しかし、こうした皇帝の逆鱗に触れる書を目にした後、隋の煬帝は、

前回取り上げた『隋書』東夷伝倭国条における記述のなかで示されているように、内心では日本のことを「蛮夷」の国として蔑み、怒りすら覚えていたはずなのにも関わらず、

そうした無礼で野蛮な国の使者をすぐに追い返してしまったり、その場で切り捨ててしまったりするようなことはせずに、

使者たちは中国側からの一通りもてなしを受け、大陸の文化を伝える様々な文物を与えられたうえで、帰国の際には、裴世清(はいせいせい)と呼ばれる中国の役人が返礼のための国使として日本へと遣わされ、

さらに、その翌年の608年には、裴世清の帰国に合わせて再び小野妹子が隋を訪れることが認められるというように、

小野妹子を筆頭とする遣隋使の一行は、中国側からも一通りの礼節を持った待遇を受けることによって、無事に中国との間の友好関係を築くことに成功することになります。

それでは、なぜ隋の煬帝は、このように日本側の態度に対して強い不快感を覚えながらも、そうした無礼で野蛮な国の使者をすぐに追い返したりはせずに、

裴世清を返礼の使者として遣わして、日本側との友好関係を結ぶに至ることになったと考えられることになるのでしょうか?

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当時の中国と日本を取り巻く東アジアにおける国際情勢と高句麗大遠征

まず、

当時の中国の皇帝である隋の煬帝(ようだい)が、辺境の小国である日本が用いる無礼な文言を内心では腹立たしく思いながらも、そうした日本と中国の間の国交を結ぶことを優先したことの背景には、

一言でいうと、

当時の中国と日本を取り巻く、東アジアにおける国際情勢が関係していたと考えられることになります。

581に、初代皇帝である楊堅(ようけん)によって南北朝が統一され、華北と華南を含む中国全土を支配する統一国家としての覇権を確立がされてからまだ三十年も経っていない当時の隋の帝国においては、

黄河と長江を結ぶ大運河の建設が進められるなど、皇帝の絶大な権力のもと、大規模な事業が進められていく一方で、帝国の内外における反対勢力との抗争もいまだ激しいところがあり、

国境の北辺においては、トルコ系の遊牧民族である突厥(とっけつ)によって北部の領土を脅かされ、

東からは、朝鮮半島北部において強大な勢力を築いていた高句麗(こうくり)の侵攻を受けることによって、

その統治には不安定な要素が数多く存在していたと考えられることになります。

そして、

こうした情勢を打破するために、隋の皇帝であった煬帝は、598年から614年までの四回にわたって大規模な高句麗遠征を繰り広げていくことになるのですが、

小野妹子を筆頭とする日本からの遣隋使が煬帝のもとを訪れたのは、まさに、こうした四次におよぶ高句麗大遠征の真っただ中に位置する607年のことであったと考えられることになるのです。

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外交儀礼上の無礼さと戦略的な実利との間の妥協点としての日本と中国の間の国交と友好関係の樹立

こうした経緯から、

中国の側としても、最大の敵国である高句麗が、新羅百済といった朝鮮半島の他の諸国と手を組み、さらに、その背後にある倭国(日本)とも同盟を結ぶことによって、

東方の半島国家と島国のすべてが連合体を形成するような形で、一挙に中国へと刃向かってくるような事態が、まさに、予想される限りにおける最悪のケースであったと考えられることになるので、

そういった国防と外交上の最悪の事態を避けるために、朝鮮半島の背後に位置する倭国(日本)と国交を結んだうえで、高句麗に対する挟撃体制を築いていくことが、

帝国の東方方面において自らの勢力を維持し、この地域の覇権を握るために必要な最優先事項の一つとなっていたと考えられることになります。

つまり、

中国側は、こうした当時の東アジアにおける国際情勢と、それに伴う高句麗大遠征における必要性といった観点から、

辺境の小国にすぎないにもかかわらず、中国の皇帝とまったく同じ「天子」の称号を用いようとする日本に対して、内心では強い不快感を覚えながらも、

そうした外交儀礼上の無礼さを黙認してでも、日本と結んで朝鮮半島の背後から高句麗を脅かすことによって、目下の高句麗遠征を自軍の有利に進めるという戦略的な実利を取るという妥協点を見いだすことによって、

こうした日本側の国書の文言を受け入れたうえで、日本との間に国交と友好関係を結ぶに至ったと考えられることになり、

それによって、日本は、

言わば、そうした漁夫の利のような立場から、

中国との間の皇帝と国王宗主国と従属国といった冊封体制の軛(くびき)から解き放たれ

形式的には対等関係とまで言ってもいいような独自の外交上の立場から、中国との間に新たな形での外交関係を結んでいく道を見いだしていくことになるきっかけを得ることになったと考えられることになるのです。

・・・

次回記事:「日出づる処の天子」という言葉は日本と中国の対等外交の樹立を表すのか?君主の間の対等関係と国同士の間の対等外交の違い

前回記事:隋の煬帝は「日出づる処の天子」という言葉のどこに怒ったのか?辺境の小国の王が中国の皇帝と同じ天子を僭称することの問題

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