五帝とは何か?②伏羲・太昊・神農・炎帝・少昊・禹・湯などの様々な帝王の中から『史記』における五人の聖王が選ばれた理由
前回書いたように、古代中国における伝説的な五人の聖君として位置づけられている五帝(ごてい)に該当する人物の名前としては、一般的には、
古代中国における正史の一つである『史記』において記述のある黄帝(こうてい)・顓頊(せんぎょく)・帝嚳(ていこく)・尭(ぎょう)・舜(しゅん)という五人の聖王の名が挙げられることになると考えられることになります。
その一方で、こうした五帝に含まれる人物の名前としては、典拠となる文献の違いなどによって、さらに、
伏羲(ふっき)、太昊(たいこう)、神農(しんのう)、炎帝(えんてい)、少昊(しょうこう)、禹(う)、湯(とう)といった他の様々な帝王の名も挙げられていくことになるのですが、
それでは、こうした古代中国の帝王たちは、いったいどのような意味において五帝のうちの一人として数え上げられていて、
なぜ、こうした数多くの帝王の中から、最終的に、前回取り上げた『史記』などにおける五人の聖王が五帝として特別に選ばれるようになっていったと考えられることになるのでしょうか?
三皇のうちの一人にして太古の世界を統治した異形の姿をした神々でもある伏羲・太昊・神農・炎帝という四人の帝王
まず、
今回新たに挙げた五帝に含まれる可能性のある人物のうち、最初に挙げた伏羲と太昊、そして、神農と炎帝という四人の帝王についてですが、
このうち、前々回の「三皇とは何か?」の記事で書いたように、
伏羲と神農という二人の帝王は、古代中国において五帝よりもさらに以前の太古の世界を統治していたとされる古代の帝王にして異形の姿をした神々でもある三皇(さんこう)のうちの一人にも数えられる帝王としても位置づけられていて、
伏羲(ふっき)は、占いの一種である八卦(はっけ)や文字を発明し、人々に漁労や牧畜の技術を教えたとされる蛇身人首の姿をした帝王であるのに対して、
神農(しんのう)は、人間社会に農業技術をもたらし、薬草学の知識に基づく東洋医学的な医学の発達をもたらした牛頭人身の姿をした帝王であったとされています。
そして、
残りの二人である太昊と炎帝とは、共に、太陽や火を司る神、すなわち、太陽神のことを意味する言葉でもあるのですが、
こうした古代中国における太陽神としての両者は、中国神話においては、太古の世界を統治していたとされる三皇のうちのいずれかの存在へと同化していく形で捉えられていて、一般的には、
太昊(たいこう)は、三皇のうちの最初の帝王である伏羲と、炎帝(えんてい)は、三皇のうちの最後の帝王である神農とそれぞれ同一視されるようになっていったと考えられることになるのです。
黄帝の息子である少昊と中国最古の王朝である夏と殷を建国した禹と湯という二人の帝王
そして、
次に挙げた少昊、禹、湯という三人の帝王についてですが、
このうち、少昊(しょうこう)は、冒頭で挙げた『史記』における五帝のうちの最初の帝王として位置づけられている黄帝の息子にあたる人物であるとされていて、
前述した太昊(たいこう)と呼ばれる古代の帝王の徳を受け継ぐような優れた徳を持った人物であったという意味でこうした名前で呼ばれていると考えられることになります。
それに対して、
残りの二人である禹と湯は、両方とも、古代中国の歴史書においては古代において歴史上実在したとされている王朝の建国者として位置づけられる人物であり、
禹(う)は、冒頭で挙げた『史記』における五帝のうちの最後の帝王である舜(しゅん)の後を継いで、
紀元前1900年頃に、古代中国の歴史書における記述の中では、中国最古の王朝であるとされている夏(か)を建国したとされるのに対して、
湯(とう)は、歴史伝承上は中国最古の王朝であるとされる夏が滅んだ後、
紀元前1600年頃に、現在において考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である殷(いん)を建国したとされています。
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以上のように、
古代中国における伝説的な五人の聖君として位置づけられている五帝に該当する人物の候補としては、
前回取り上げた『史記』において記述のある黄帝・顓頊・帝嚳・尭・舜という五人の聖王の他にも、
今回新たに取り上げた伏羲・太昊・神農・炎帝・少昊・禹・湯といった七人の帝王の名前なども挙げられることになるのですが、
このうち、
伏羲・太昊・神農・炎帝という四者は、前述したように、五帝よりも以前に太古の世界を統治していた神々である三皇のうちにも含まれる帝王であることから、こうした三皇と五帝の間の名前の重複を避けるために、
『史記』などにおける五帝の記述からは除外されることになったと考えられることになります。
そして、
禹・湯の両者についても、こうした二人の帝王は、古代中国の歴史書においては、両者とも、歴史上実在した現実の王朝の建国者として位置づけられることから、
伝説上の聖君である五帝として位置づけるには、少し現実味が強すぎる帝王であるとも考えられることになります。
そして、
残された黄帝・少昊・顓頊・帝嚳・尭・舜という六人の帝王のうち、
こうした六人の帝王の内の最初の帝王にあたり、漢民族の祖としても位置づけられている黄帝と、
のちに儒学において王道政治の模範として位置づけられ、聖人として神格化されていくことになる尭と舜の二人の帝王は、五帝のうちから外すことはできないとして、
残された少昊・顓頊・帝嚳の三者のうち、能力によらない因習的な世襲制による帝位の継承のあり方を弱めるために、黄帝と直接的な親子関係にあるとも考えられている少昊を除外し、
共に黄帝の子孫として位置づけられてはいるものの、先代との間に直接的な親子関係が存在しない帝王である顓頊・帝嚳の二人の帝王が、五帝のうちの残りの二人として選ばれていくようになり、
このようにして、前回取り上げた『史記』において記述のある黄帝・顓頊・帝嚳・尭・舜という五人の帝王が、
五帝、すなわち、古代中国における伝説的な五人の聖君として位置づけられるようになっていったと考えられることになるのです。
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次回記事:三皇と五帝の違いとは?神々の治世から人間の帝王の治世への古代中国の神話と伝承の世界における時代の変遷のあり方
このシリーズの前回記事:五帝とは何か?①黄帝・顓頊・帝嚳・尭・舜の五人の聖王による儒教が理想とする王道政治の実現
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