人類の永続的な発展のあり方を示す生命と国家における二重の弁証法、ヘーゲル哲学における生命の弁証法的展開の構造③
このシリーズの前回の記事で書いたように、ヘーゲルの弁証法哲学に基づくと、人間の生命における弁証法的展開のあり方は、
「女性」と「男性」と「子供」という三者の間に成立する生物学的な関係の内に見いだすことができると考えられることになり、
具体的には、
「女性」をテーゼ(正)、それに対する「男性」をアンチテーゼ(反)としたうえで、両者の存在の間の対立がアウフヘーベン(止揚)されることよってジンテーゼ(合)としての「子供」が誕生するという形で、
人間の生命における弁証法的展開が進んで行くと考えられることになります。
そして、
このような「女性」と「男性」の間の対立の発展的な解消として新たに誕生した「子供」という存在もまた、いずれは、彼女または彼自身が大人の「女性」と「男性」のいずれかへと成長していくことによって、新たな世代の段階における「女性」と「男性」の間の対立が生み出されていき、
そうして生じた両者の間の新たな対立に、新たな形でのアウフヘーベンがもたらされることによって、さらに新たな世代における子孫の誕生というジンテーゼ(統合)がもたらされるという形で、
人間の生命における弁証法的な自己展開の過程がどこまでも永続的に続いていくことになると考えられることになります。
人類の永続的な発展のあり方を示す生命と国家における二重の弁証法
そして、
こうした「女性」と「男性」から、両者の間に生まれる「子供」へと展開していく生物学的な意味における人間の生命の弁証法的発展のあり方に対して、
以前に「ヘーゲルの国家論における三重の崩壊に基づく動的で有機的な国家の弁証法的展開の構造」の記事で書いたように、
人間社会を統合する動的で有機的な存在としての「国家」においては、
人間同士の自然的な結合状態である「家族」がテーゼ(正)、それに対して、互いに孤立した自由な個人の集まりである「市民社会」がアンチテーゼ(反)とされたうえで、両者の存在の間の対立がアウフヘーベン(止揚)されることよってジンテーゼ(合)としての「国家」が成立するという形で、
人間社会における弁証法的展開が進んで行くと考えられることになります。
つまり、
社会学的な意味においては、人類という存在は、
その自然的な結合状態である「家族」が自らの結合の一部を破綻させることによって「市民社会」へと労働力を提供し、
それに対して、互いに孤立した自由な個人の集まりである「市民社会」は自らの自由の一部を放棄することによって「国家」による統制を受け入れ、
両者の概念のアウフヘーベンとして生み出された「国家」は自らの統一の一部を崩壊させることによって自分自身の内部に新たな「家族」という自然的な結合を再生産するという形で、
人間社会における「国家」の弁証法的な展開がどこまでも永続的に進展し続けていくことになると考えられることになるのです。
・・・
以上のように、
ヘーゲルの弁証法哲学に基づくと、人間あるいは人類と呼ばれる存在は、
生物学的な意味においては、
「女性」と「男性」と「子供」という三者の間に成立する生命の弁証法的な自己展開の過程をどこまでも繰り返していくことによって、種族としての発展の道を歩み続けていくことになると捉えられるのに対して、
社会学あるいは政治学的な意味においては、そうした一つの家族を形成していくことになる「女性」と「男性」と「子供」の間の生物学的な関係を前提としてうえで、今度は、
「家族」と「市民社会」と「国家」という三者の間に成立する人間社会の弁証法的な自己展開の過程が進展し続けていくことによって、そうした人間社会を統合する動的で有機的な存在としての国家の発展の道がどこまでも果てしなく続いていくことになると考えられることになります。
そして、そういう意味では、人類という存在自体が、
「女性」と「男性」と「子供」、そして、「家族」と「市民社会」と「国家」という生物学的な意味と社会学的な意味の両面における二重の弁証法的展開の内にあり、
そうした永遠なる弁証法の発展形態の内に常に位置づけられている存在として捉えることができると考えられることになるのです。
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このシリーズの初回記事:ヘーゲルの弁証法の原型となる『精神現象学』における植物についての生命の弁証法的展開の構造
このシリーズの前回記事:女性・男性・子供の三者の間に成立する人間の生命の弁証法的発展の構造、ヘーゲル哲学における生命の弁証法的展開の構造②
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