デジャブ(既視感)とプラトンのイデア論における想起説との関係とは?
前回書いたように、自分にとって未知の新しい経験であるはすの認識を以前にも経験した既知の認識であるように感じてしまう現象であるデジャブ(既視感)が生じてしまう心理学的な原因としては、
過去の記憶との混同や、知覚の瞬間的なリエントリー、そして、夢や想像の世界の表象との連結といった原因が考えられることになります。
そして、その三つ目の原因にあたる夢や想像の世界といった人間の心の内にある様々な表象とのつながりという観点からは、
プラトンのイデア論における想起説の議論や、スピノザにおける永遠の相の認識へと通じるような形而上学的解釈へとつながる要素を見いだすことができると考えられることになります。
デジャブ(既視感)とプラトンのイデア論における想起説との関係
詳しくは、「『パイドン』の想起説におけるイデアの実在性の論証」の記事で考察しましたが、
プラトンの中期対話篇である『パイドン』の「霊魂の不滅性の証明」の章における想起説の議論においては、
「等しさそのもの」といった普遍的な概念が例として取り上げられたうえで、そうした普遍的な概念そのものが人間が経験する現実の世界には存在しないものである以上、
そうした普遍的な観念としてのイデア(idea)は、現実の世界における経験によって得られる知識ではなく、それは人間の魂の内に生まれながらに備わっている知のあり方であると主張されることになります。
そして、こうした想起説の思想は、プラトン自身の言葉では、以下のようにと語られています。
「われわれが学習と呼んでいる事柄は、もともと自分のものであった知識を再把握することではなかろうか。そして、それが想起することなのである」(プラトン『パイドン』75E)
つまり、
通常は、自分にとって未知の新しい知識を獲得するはずの「学習」と呼ばれる知の働きの本質は、自らの心の内にもともと存在するイデアについての知を現実の世界の内で再把握する過程に過ぎず、
学習や経験によって得られる知識や真理そのものは、もともと人間の心の内に備わった既知の認識の再把握ないという主張がなされていると考えられることになるのですが、
そういう意味において、こうしたプラトンの想起説における既知の認識の再把握としてのイデアの想起のあり方は、
現実の世界の内における新しい経験を自分にとって既知の認識であるように感じてしまうデジャブ(既視感)と呼ばれる認知感覚と極めて近い関係にあると考えられることになるのです。
不死なる魂の内にあるイデアの覚醒としてのデジャブ(既視感)
プラトンのイデア論における想起説の議論では、さらに、そうした自らの魂の内に存在するイデアについての知を人間はいかにして生まれながらに身につけることができたのか?という問いへと議論が進んでいき、
『パイドン』においては、人間の魂の存在のあり方ついて以下のように語られることになります。
「魂は人間の形の中に入る以前にも、肉体から離れて存在していたのであり、知力を持っていたのだ」(プラトン『パイドン』76C)
つまり、
人間の魂の内に、普遍的な観念としてのイデアが生まれながらに備わっていると考えられる以上、
人間は、現実の世界の内に肉体を持った存在として誕生する以前に、そうしたイデアや知性を持った精神的存在としてすでに存在していたと考えることができるということです。
そして、想起説の議論においては、こうしたイデアの実在性と生得性という観点から人間の魂の不滅性が論証され、
そこから、さらに、人間の現実の世界の内における生は、そうした不死の存在である魂がイデアの世界と現実の世界との間の転生を繰り返すことによって営まれているとする、
魂の不死と輪廻転生の教説が説かれていくことになるのですが、
そういう意味においては、
デジャブ(既視感)と呼ばれる通常は未知の経験を既知の認識であると勘違いしてしまう一種の錯覚とみなされている現象についても、
それは、人間が前世や、魂がこの世界に生を受ける以前のイデアの世界において現世におけるあらゆる経験や認識の原型となるイデアについての知をすでに得ていて、
現実の世界の内の何らかの経験をきっかけとして、そうした人間の魂の奥底に眠っているイデアについての知が呼び覚まされることによって生じている現象であるとも捉えられることになります。
つまり、以上のようなプラトンのイデア論における想起説の議論に基づくと、
現実の世界の内における出来事や経験のすべては、普遍的な観念としてのイデアが、その表面的な姿を変えて繰り返し現れることによって成り立っていて、
デジャブ(既視感)と呼ばれる現象は、単なる勘違いや錯覚としてだけ捉えられるものではなく、
それは、人間の不死なる魂の奥底に眠っているイデアについての知が現実の世界における経験をきっかけとして呼び覚まされるという人間の魂の内なるイデアの覚醒によってもたらされる神秘的な認識のあり方でもあると解釈することができると考えられることになるのです。
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次回記事:神秘的な認識としてのデジャブ(既視感)とスピノザにおける「すべてを永遠の相のもとに見る」神の認識
前回記事:デジャブ(既視感)が生じる心理学的な三つの原因とは?
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