哲学における四つの直観の違いとは?自己直観と知的直観と感性的直観と本質直観

前回までの一連のシリーズの記事で書いてきたように、

近代哲学以降の哲学思想においては、

デカルトにおける自己直観や、スピノザにおける知的直観、さらにはカントにおける感性的直観や、フッサールにおける本質直観というように、

人間の意識における直観という認識能力を示す認識のあり方は、様々な形で捉えられていくことになります。

そこで、今回は、

こうした近代哲学現代哲学の思想において現れる自己直観知的直観、そして感性的直観本質直観と呼ばれる四つの直観のあり方について、

それぞれの直観概念が互いにどのような意味で異なっているのか?ということについて、改めてまとめ直していく形で考えていきたいと思います。

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デカルトにおける最も直接的で確実な認識としての自己直観

近代哲学において、哲学思想を支える認識のあり方として直観という認識のあり方が重要な意味を持つようになるのは、17世紀前半フランスの哲学者であるデカルトの時代ということになりますが、

そうしたデカルト哲学において、直観という概念は、一義的には、「私はある、私は存在する」という意識の根本命題において示される自己直観として捉えられることになります。

デカルトにおける哲学の第一原理を示す命題というと、一般的には、『方法序説』に出てくるわれ思う、ゆえに、われありコギト・エルゴ・スム)という言葉の方が有名ですが、

デカルト自身が主著である『省察』の「第二答弁」の中で述べているように、こうした思考する私における自分自身の存在についての自己認識は、基本的には、

通常の学問における論理的推論によってではなく、私の意識にとって最も直接的で確実な認識である自己直観という認識のあり方において成立していると考えられることになるのです。

スピノザにおける知的直観とカントにおける感性的直観の違い

そして、

デカルトの次の時代にあたる17世紀後半オランダの哲学者であるスピノザにおいては、こうしたデカルトにおける自己直観を含む直観知のあり方は、

自分自身の意識を含めたすべての存在がその内に包含される無限なる神の存在の内にある直観的認識として捉え直されていくことになります。

スピノザの哲学においては、自分自身を含むあらゆる存在が無限なる神の存在の内にあることを自覚したうえで、すべてを永遠の相のもとに一挙に把握するという認識のあり方でが人間における最高の認識のあり方であるとされることになりますが、

スピノザにおいては、そうした神の無限なる知性へと通じる人間における最高の認識のあり方が知的直観と呼ばれる直観的認識のあり方であるとされることになるのです。

しかし、それに対して、

18世紀のドイツの哲学者であるカントにおいては、

そうしたスピノザの哲学における知的直観といった認識のあり方は、感覚や知覚を通じてしか世界を認識することができない人間の認識においては不可能な認識のあり方であるとして否定され、

人間の認識において可能なのは、時間と空間という二つの形式によってもたらされる感性的直観と呼ばれる直観のあり方だけであると規定されることになります。

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フッサールの現象学における超越論的主観性と本質直観

しかし、

こうしたカントにおける直観概念の転回によって、その後の哲学史の流れの中からデカルトにおける自己直観スピノザにおける知的直観といったそれ以前の直観概念の意味合い自体が失われていしまうわけではなく、

こうしたデカルトにおける自己直観や、スピノザにおける知的直観といった直観概念のあり方は、その後のフィヒテシェリングなどにおけるドイツ観念論の思想や、さらにその先の現代哲学の思想の内にも受け継がれていくことになり、

その中でも、特徴的な直観概念としては、19世紀後半から20世紀前半にかけて活動したドイツの哲学者であるフッサールにおける本質直観と呼ばれる直観概念のあり方が挙げられることになります。

フッサールが新たに切り拓いた哲学思想の学問分野である現象学においては、それがより正確には超越論的現象学と呼ばれるように、基本的には、カントが切り拓いた超越論哲学の枠組みもある程度は継承されていくことになるので、

そうしたフッサールの現象学においては、

人間の意識において認識される現象の本質は、自然的態度における認識の対象となる客観的世界の側にあるのではなく、超越論的主観性と呼ばれる自分自身の純粋意識の内にあると捉えられることになります。

そして、

超越論的主観性と呼ばれる意識の内では、そうした意識の内に現れている現象の本質自体を直観することは可能であるとされることになり、

そうした超越論的主観性の内において成立する現象の本質を一挙に把握する直観のあり方が本質直観であると規定されることになるのです。

・・・

以上のように、

自己直観知的直観、そして、感性的直観本質直観という四つの直観のあり方は、それぞれ、デカルトスピノザ、そして、カントフッサールというフランスやドイツを代表する近現代の哲学者たちの思想における主要な直観概念のあり方を示していると考えられることになります。

そして、

デカルトにおける自己直観が、「私はある、私は存在する」という意識の根本命題において示されるような、思考する私の存在についての直観という私の意識にとって最も直接的で確実な認識のことを意味する概念であるのに対して、

スピノザにおける知的直観とは、自分自身の意識を含めたすべての存在を無限なる神の存在の内に捉え、自分自身を含むあらゆる存在がそうした無限なる神の内にあることを自覚したうえで、すべてを永遠の相のもとに一挙に把握する直観のあり方のことを意味する概念であると捉えられることになります。

そして、それに対して、

カントにおける感性的直観は、時間と空間といいう二つの形式によってもたらされる通常の感覚や知覚へと通じる直観のあり方を意味する概念であり、

フッサールにおける本質直観は、すべての存在がその内にあり、すべての現象が現れる意識の場である超越論的主観性の内において成立する現象の本質を一挙に把握する直観のあり方を意味するという点において、

これらの近代哲学および現代哲学における四つの直観のあり方についての具体的な意味の違いがあると考えられることになるのです。

・・・

初回記事:哲学における直観の意味とは?①プラトンのイデア論におけるノエーシスからアリストテレスのテオリアへ

前回記事:フッサールの現象学における本質直観とは何か?プラトンのイデア論からフッサールの形相的直観へ、哲学における直観の意味⑦

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