非知の知と未知の知か?それとも無知の知と不知の知か?ソクラテスにおける否定的な知のあり方の四つの解釈②
前回書いたように、
「知らないことを自覚する知」というソクラテスにおける否定的な知のあり方のことを表現する日本語の表記については、
「無知の知」、「不知の知」、「非知の知」、「未知の知」という四つの異なる表記が考えられることになります。
そして、
こうした四つの表記における字義上の意味の違いがより明確になるように記述するならば、これらの表記は、それぞれ、
「知が無いということについての知」
「知ら不る(ざる)ということについての知」
「知に非ざる(あらざる)ものについての知」
「未だ知らないということについての知」
という意味を表していると考えられることになります。
これらの四つの表記の内、ソクラテスにおける否定的な知のあり方のことを示すのに最も適切な表記のあり方はどの表記であると考えられることになるのでしょうか?
「あらぬもの」すなわち非存在を探求する「非知の知」
ソクラテスにおける「知らないことを自覚する知」とは、より正確に言うならば、善美なるものの普遍的真理については知らないということを自覚する知ということになりますが、
まず、はじめに、
こうした否定的な知のあり方のことを示す表現の内の「非知の知」、すなわち、「知に非ざるものについての知」という表現について考えてみたいと思います。
そうすると、
「知に非ざる(あらざる)ものについての知」とは、
「あらぬもの」、すなわち、非存在についての知ということになりますが、
そもそも、それが知として非存在であるとするならば、そうした非存在であるものについての知は、その存在自体が不可能であると考えられることになります。
例えば、
「「あるの道」が真理の道、「あらぬの道」が偽りの道である理由とは?」でも書いたように、
ソクラテスに遡ること50年ほど前の時代を生きた古代ギリシアの哲学者であるパルメニデスにおいても、
「あらぬもの」、すなわち、非存在を探求する哲学的探究の道は、論理矛盾へと陥る探究不可能な道として、その知の可能性自体が否定されることになりますが、
それと同様に、
「非知の知」という表現も、知として存在すること自体が不可能なものについての知という矛盾そのものの表現になってしまっているということです。
しかし、
ソクラテスは、善美なるものについての普遍的真理という知の存在自体を否定しているわけではなく、
その存在を心から信じ、その知を手にすることを求めてやまないからこそ、そうした知の探究を続けていると考えられるので、
「非知の知」という表現は、善美なるものについての普遍的真理という知の存在自体は肯定しながら、そうした知へと人間の知が到達することを否定するというソクラテスにおける否定的な知のあり方を示す表現としては不適切であると考えられるのです。
今はまだ知らないが後で知ることができる「未知の知」
それでは、次に、
「未知の知」、すなわち、「未だ知らないということについての知」という表現についてはどうなのか?というと、
この表現には、今はまだ知らないが、おそらく後で知ることができるであろうという肯定的なニュアンスが入ってくると考えられることになります。
例えば、
通販のサイトなどでよく見られる「未入荷」といった表現では、単にその商品が在庫切れで存在しないという意味だけではなく、今はまだ入荷していないが、おそらく後で入荷する予定になっているといったニュアンスも加わってくるように、
「未知の知」という表現についても、
それには、善美なるものの普遍的真理については今はまだ知らないが、探究を進めていくうちにいずれ知ることができるであろうという可能性が含まれていると考えられるということです。
しかし、
詳しくは、「神と被造物の間に位置する人間の知のあり方、ソクラテスの無知の知とは何か?」で考察したように、
ソクラテスにおいて、哲学的な知の探究において求められる知のあり方は、神の知におけるような善美なるものについての普遍的真理であるとされているのに対して、
そうした完全なる普遍的真理を探求する人間の知性は限られた不完全なものであり、それが完全なる神の知へと到達することは原理的に不可能であると考えられることになります。
そして、そういう意味では、
人間の知が善美なるものについての普遍的真理である神の知へと将来到達する可能性があることを認めてしまうことになる「未知の知」という表現も、
やはり、ソクラテスにおける「知らないことを自覚する知」のあり方を示す表現としては不適切であると考えられることになるのです。
・・・
そして、このことは、
善美なるものの普遍的真理について知らないことを自覚するというソクラテスにおける否定的な知のあり方が、
完全に非存在であるものについての存在自体が不可能な知のあり方のことを意味する「非知の知」という知のあり方のこと示すものでもなければ、
今は知らなくても未来にはその知へと到達することができるようになり、いずれは「知らない」という状態から完全に解放される時が来るということを意味する「未知の知」という知のあり方を示すものでもなく、
「非知の知」と「未知の知」という両極端の知のあり方の中間のどこかの地点に位置する知のあり方であると考えられることを意味することになるのです。
そして、以上のように、
善美なるものの普遍的真理については知らないということを自覚するソクラテスにおける否定的な知のあり方を表現する、日本語における四つの可能的な表記の内、
「非知の知」と「未知の知」という二つの知のあり方は、その適切な表記の候補からは除外されることになり、
「無知の知」か「不知の知」のいずれかの表記へと候補が絞り込まれることになるのです。
・・・
次回記事:無知の知と不知の知の違いとは?ソクラテスにおける否定的な知のあり方の四つの解釈③
前回記事:「無知の知」の由来と自分が知らないことを自覚する知のあり方、ソクラテスにおける否定的な知のあり方の四つの解釈①
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