敵を前にして逃げない勇気と、勇気ある戦略的撤退、ソクラテスの問答法とは何か?②
前回書いたように、
ソクラテスの問答法においては、エレンコスと呼ばれる論駁の形式に基づいて対話相手の知の吟味と探究が進められていくことになります。
そこで、今回は、そうしたソクラテスのエレンコスの具体例として、
『ラケス』におけるソクラテスと、アテナイ軍を率いるラケスとニキアスという二人の将軍との間の対話と知の論駁のあり方について見ていきたいと思います。
猛将ラケスとペロポネソス戦争
プラトン著の対話篇『ラケス』においては、以下のような形で勇気についての知をテーマとした知の論駁が進められていくことになります。
『ラケス』におけるソクラテスの対話相手である将軍ラケス(Laches)は、
紀元前431年から404年まで続いたアテナイとスパルタを中心とする古代ギリシア世界全体を巻き込んだ戦争であるペロポネソス戦争においてアテナイ側の軍勢を率い数々の戦績を挙げてきた猛将です。
ちなみに、
猛将ラケスは、ソクラテスとの対談の後も、戦いに明け暮れる軍人としての人生を歩んでいくことになり、
最期は、現在のギリシャのペロポネソス半島南部に位置するマンティネイアの戦いにおいて、スパルタ軍との壮絶な戦闘の末、戦死を遂げることになります。
敵を前にして逃げない勇気と、勇気ある戦略的撤退
そして、
ラケスは、そのような軍人としての豊富な戦闘経験から、軍人とって最も重要な徳(アレテー)である勇気の徳について、
自分は勇気とは何であるかよく知っていると主張することになります。
それに対して、ソクラテスは、
まず、
それが何であるかを知っているならば、そのことを言葉で言い表すことができるはずだということをラケスに認めさえたうえで、
彼に対して、それでは、勇気とは何か?それはどのように定義されるものなのか?と問いかけます。
この問いに対するラケスの第一の答えはいかにも軍人らしい勇ましいもので、彼は、
勇気とは、「敵を前にして逃げることなく戦列にとどまり続けることだ」と主張します。
つまり、
敵を前にして、これに背を向けるのは、敵に怖気づいて逃げ出すという勇気のない臆病な行為なので、その反対である、敵を前にして逃げずに戦い続ける行為こそが勇気ある行為であるということです。
しかし、こうしたラケスによる勇気の定義に対して、ソクラテスは、
遊牧民族であるスキタイ人の騎馬戦術や、プラタイアイの戦いにおけるスパルタの重装歩兵軍の戦略的撤退を例に挙げて、ラケスによる勇気の定義についての主張を反駁していくことになります。
スキタイ人の部隊は、騎兵の機動力を生かして、素早い前進と後退を繰り返しながら敵軍の歩兵部隊を揺さぶる陽動作戦を展開することもあれば、
さらに、騎兵を後退させながら敵軍に弓矢を射かける騎乗射撃を行うことによって、後退と戦闘を同時に行う戦術をとることもありました。
また、
ペルシア戦争におけるギリシア側の勝利を決定づける戦いとなった紀元前479年のプラタイアイの戦いにおいては、
スパルタ軍を率いる名将パウサニアスは、スパルタ軍の主力である重装歩兵部隊を一時的に前線から撤退させたうえで、
逃げるスパルタ軍に対して全軍で追撃を加えようとするペルシア軍を迎え撃つために、途中で反転攻勢へと打って出る戦略をとることになります。
スパルタ側の突然の反撃によって混乱する戦列の伸びきったペルシア軍に対して、兵の熟練度と士気の高さ、および装備の質で大きく上回るスパルタ軍の重装歩兵団が一気に襲いかかり、
パウサニアスの采配によって、ギリシア連合軍は、自軍の3倍を超えるペルシアの大軍を打ち破ることに成功し、
スパルタ側の戦死者およそ100名に対して、ペルシア側の戦死者20万人以上とも言われる古代ギリシア始まって以来の劇的な大勝利がもたらされることになります。
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このように、
戦いにおいては、スキタイの騎馬戦術における勇気ある後退や、スパルタの名称パウサニアスの采配による勇気ある撤退のように、
一見すると敵を前にして逃げるようでありながら、その実、理にかなっていて、自軍へと勝利をもたらすことにつながる勇気ある行動というのも存在すると考えられることになります。
したがって、
単に、「敵を前にして逃げる」ことが臆病であり、その反対に、「敵を前にして逃げずに戦い続ける」ことが勇気であると結論づけるラケスによる勇気の定義は覆され、
その主張は、ソクラテスによって論駁されることになるのです。
そして、
ソクラテスの問答法におけるエレンコス(論駁)の議論によって自分が提示した勇気の定義を否定されてしまった猛将ラケスは、
さらに、勇気についての知に関する第二の定義を提示することによって、再びソクラテスの論駁を迎え撃つことを試みることになるのです。
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次回記事:勇気とは魂が持つ思慮ある忍耐強さである、ソクラテスの問答法とは何か?③
前回記事:ソクラテスの問答法とは何か?①エレンコスにおける演繹的推論と帰納的議論
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