知行合一とは何か?知行並進と知即行の思想
前回書いたように、
近世中国の儒学における実践道徳の思想としては、
まず、12世紀の南宋の時代、朱子学の創始者である朱熹によって、
先に知を学んだ上で、その後で道徳の実践が行われるべきであり、
知(認識)よりも行(実践)の方により重きを置く先知後行説が唱えられることになります。
そして、それに対して、
その後の明の時代になると、王陽明によって、先知後行説とは異なる新たな知(認識)と行(実践)の関係の捉え方をする思想として知行合一説が唱えられることになります。
王陽明の知行合一説と知行並進における学びと実践の同時進行
知行合一説(ちこうごういつせつ)とは、
16世紀の明の時代の中国で、朱子学を批判する中で生まれたさらに新たな儒学説である陽明学を開いた王陽明が唱えた学説であり、
陽明学における知行合一説においては、朱子学における先知後行説の主張における問題点を批判し、これを発展的に解消していくことによって、新たな実践道徳のあり方が説かれていくことになります。
王陽明は、自分自身の道徳思想を言い表す言葉として「知行合一」という表現の他に「知行並進」という表現も用いていますが、
このことからも分かる通り、
知行合一説においては、先知後行説におけるような知識と行動の間の順番における前後関係はなく、
道徳は、善についての知が学びながら同時に実践されることによって実現されていくと考えられることになります。
例えば、
蜂に刺される痛みを知っていると言う時、
それは、蜂の毒針に刺されると蜂の毒腺からハチ毒と呼ばれるホスホリパーゼやヒアルロニダーゼ、プロテアーゼといった複数の毒素から成る毒液が皮下に注入され、それらの毒素の相互作用によって痛みや血圧低下、アレルギー反応といった様々な症状が引き起こされるという医学的な知識を持っているだけでは不十分であり、
蜂に刺されることの痛みは、実際に蜂に刺された経験がある人にしか本当の意味では分からないと考えられることになります。
そして、それと同様に、
例えば、いじめられている子を助けるという善行がどのようなものであるのかを知るためには、
単に、いじめることは悪い事であり、学校でいじめられている子を見つけたら、その子を助けて、友達になってあげるのが善い事だという教科書的な知識を持っているだけでは不十分であり、
自分が代わりにいじめのターゲットにされる危険性を引き受けてまで、勇気を振り絞っていじめられている子をかばって助けるという行為を実際にやってみるまでは、
いじめられている子を助けるという善行がどのようなものであるのかということについての本当の知を得ることはできないと考えられることになります。
このように、
人間の痛みや感情、特に道徳心が関わるような善の知に関しては、
そうした善についての知について、それを真の意味で知っていると言うためには、単に、頭の中でどういう行為を行うことが善であるかということを知っているだけでは不十分であり、
それは、そうした知を実際に行うことや、善行を行おうとする自分自身の心のあり方と密接な関係にある知であると考えられることになります。
つまり、
善についての知は、善を行う心の状態や善を行うという実践行為と切り離して考えることができない、そうしたものと不可分な関係にあるということです。
知即行における知と行の一体化と真なる知が善の実践へと直結する思想
そして、さらに、
「知行合一」における善についての知(認識)と行(実践)が互いに分離できない一体の関係にあるという知の捉え方は、
陽明学における「知即行」(ちそくこう)、または「真知即行」と呼ばれる考え方へと結びついていくことになります。
王陽明はその主著である『伝習録』の中で、
「真知は即ち行たる所以なり。行わざれば、これを知といふに足りず。未だ知りて行わざる者あらず。知りて行わざるは、只だ是れ未だ知らざるなり。」
と述べていますが、これを現代語訳すると以下のような意味になります。
それゆえ、真なる知とはすなわち行なのである。行わなければそれを(真なる)知と言うには不十分である。いまだかつて(真なる知について)知っていながらそれを行わなかった者はいない。知っていながらそれを行わないというのは、単に、そのことを(真なる意味では)知っていないというだけなのである。
つまり、
王陽明は、本質的には、善についての真なる知は、その知の実践である行と一致することになり、
真なる意味で善についての知を知っているということは、善なる徳、さらには善の実践へと直結すると考えていたということです。
このように、
王陽明の知行合一説においては、朱熹の先知後行説が主張するような、知識としては知っていながらそれを実践することができないという事態は本当の意味ではあり得ず、
むしろ、
善く生きることができないのは、そうした善についての知について、いまだ真の意味では深く知ることができていないので、それを実践することもできないでいるに過ぎないと考えられることになるのです。
・・・
以上のように、
王陽明が唱えた知行合一説においては、
善についての知はその実践と結びつくことではじめて意味を持ち、知と行が同時に実践されることによって道徳が実現されていくという「知行並進」、
そして、
善についての真なる知は、その知の実践である行と本質的に一体であり、真なる意味で善についての知を知ることが必然的に善の実践、すなわち、善く生きることに直結するという「知即行」の思想に基づいて、
知(認識)と行(実践)が本質的に一体となった新たな実践道徳の形が提示されていくことになるのです。
・・・
次回記事:知行合一と先知後行の違いとは?両者の思想を特徴づける三つの相違点
前回記事:先知後行説とは何か?知っていることを知っている通りに行うことの難しさ
「東洋思想」のカテゴリーへ