ソクラテスとニーチェ、神に従う年老いた森の聖者と超人ツァラトゥストラ
前回書いたように、
ソクラテスの思想と実存主義の思想には、主体的に体得される生きた真理を重視し、それを追求し続けたという点において、その哲学探究のあり方に大きな共通点があると考えられることになります。
しかし、その一方で、
ソクラテスの思想と実存主義の思想、その中でも特に、実存主義を代表する哲学者の一人であるニーチェの哲学との間には、やはり、大きな隔たりがあるとも考えられることになります。
ソクラテスの神意に導かれし哲学とニーチェの神亡き後の世界の哲学
プラトン著『ソクラテスの弁明』の中でソクラテスは、自らの使命である哲学探究のあり方について以下のように語っています。
私は今もなお神意のままに歩き回って、アテナイ市民であれ、また外国人であれ、知者と思われる者を見つければこれを捕まえて、彼が本当に知者であるか否かについて探究しているのだ。
そして、事実がこれに反することが分かれば、私は神の助力者となって、彼が知者ではないことを明らかにするのである。
(プラトン『ソクラテスの弁明』、第9節)
つまり、
ソクラテスは、自らの哲学探究を「神の助力者」として「神意のままに」従う知の探究活動であると位置づけていて、
神の意志に基づいて神の知である普遍的真理を探究していくことが自らに課せられた使命であると考えていたということです。
そして、そういう意味では、
ソクラテスは、神の存在を信じ、神の意志に従って知の吟味と探究を行っていくことが自らの天命であると考えていたということになるのです。
これに対して、
ニーチェの神に対する態度と、彼自身の哲学探究の姿勢を端的に表していることで有名な「神は死んだ」という言葉は、
彼の主著の一つである『ツァラトゥストラはかく語りき』の一節で以下のような形で語られることになります。
ツァラトゥストラは一人になったとき、彼は自分の心に向かってこう言った。
「いやはや、とんでもないことだ。この老いた聖者は、森の中にいて、まだ何も聞いていないのだ。神が死んだということを。」
(ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』より第一部「ツァラトゥストラの序説—超人と『おしまいの人間』たち」第2節)
つまり、
ニーチェは、自分の哲学と思想によって古典的な価値観における神の概念は既に否定されているのだが、
この物語の中に出てくる年老いた森の聖者に代表されるような旧態依然とした哲学者や宗教家たちは、いつまでも古来から続く自分たちの世界の内に引きこもっていて、そうした現代社会における思想や価値観の変化に気づいてすらいないということを嘆いているということです。
そして、
この物語の主人公であるツァラトゥストラは、その後、神亡き後の世界に人間がいかにして生きていくべきかという新たな生き方と新たな価値観の指針を示していくために、
ツァラトゥストラの口を借りて、ニーチェ自身の哲学の核心となる思想である超人の思想を説いていくことになります。
このように、
『ツァラトゥストラはかく語りき』の中の上述した場面では、
ツァラトゥストラに象徴される神亡き後の世界に君臨することになるニーチェの新しい哲学が、年老いた森の聖者に象徴される旧来の哲学者たちの思想と対比される形で描かれていると考えられることになります。
そして、そういう意味では、
現代哲学の流れから取り残された古い哲学者の姿である年老いた森の聖者の姿は、古代ギリシア哲学の礎を築いた哲学者であるソクラテスのような哲学者の姿に重ねるようにして描かれているとも考えられることになるのです。
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以上のように、
ソクラテスの哲学も、ニーチェを代表とする実存主義の哲学もそれぞれの時代の既存の知のあり方に挑戦し、自分の頭で主体的に考え抜いたうえで得られる生きた真理を追い求め続けたという点で、その哲学探究のあり方には共通点が見られることになります。
しかし、その一方で、
ソクラテスが神の存在を信じることを自らの哲学探究の根幹に位置づけ、
社会の既存の知のあり方を代表する知者たちの知の吟味と論駁によって見いだされていく真理は、必ず神の知である善美なるものについての知へとつながっていくと確信していたのに対して、
実存主義の特にニーチェなどの思想においては、そうした神の知のような普遍的な真理の存在を必ずしも前提とせず、
さらには、そうした普遍的で絶対的な真理の源にある神の存在自体をも認めないという点において、両者の思想の間には、その哲学探究が最終的に向かっていく方向性と目指す境地のあり方において、やはり大きな隔たりがあると考えられることになるのです。
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