「何も無い、何も知り得ない、何も伝えられずにすべてが再び無へと帰する」ゴルギアスの箴言③、究極の相対主義が行き着く虚無主義(ニヒリズム)への道
前回詳しく解説した
何も存在しない。
たとえ存在するとしても、それを知ることはできない。
知り得たとしても、そのことを他人に伝えることはできない。
というゴルギアスの箴言における
真理の否定と相対主義の論理は、突き詰めていくと、
この世界に存在するものは、すべてが等しく無価値で無意味であるという
虚無主義(ニヒリズム、nihilism )の思想へと行き着くことになると考えられることになります。
何も無い、何も知り得ない、何も伝えられずにすべてが再び無へと帰する
ゴルギアスは、上記の箴言において、
三段階の論証によって真理の存在を否定していくことになるのですが、
こうしたゴルギアスの議論を極限まで突き詰めていくと、
以下のような論証が展開されると解釈することができます。
・・・
まず、はじめに、
第一の議論である
「何も存在しない」ということからは、
普遍的な価値を持ち、世界と人間の生に意味をもたらす真理が
元から何も無いならば、端的に、すべてが無意味であるということが結論づけられることになります。
元から意味や価値を持つものが何も無かったとするならば、
そこから新たな意味や価値が現れるということはあり得ないので、
この世界に映るあらゆる価値や意味の存在自体が束の間の幻に過ぎず、
無から始まったものは、常に無のままであり、すべてが再び無へと引き去られていくということです。
そして、次に、
第二の議論である
「知ることはできない」ということからは、
仮に、価値があり意味を持つ何らかの存在、何らかの真理があったとしても、
その真理を知ることができないならば、
それは、自分とは一切関わり合いのないものということになるので、
そうした真理は無意味で無価値なものに過ぎないということが結論づけられることになります。
たとえ、真理が存在したとしても、
その真理が誰によっても知られることがないとするならば、
そのような誰にも知られ得ない真理というのは、
絵に描いた餅のように無意味で無価値な存在に過ぎず、
真理の存在自体が元から無いのと同じことになるということです。
そして、最後に、
第三の議論である
「伝えることができない」ということからは、
仮に、ある人物が真理へと到達し、万人にとって素晴らしい価値と意味をもつ思想を得ることができたとしても、
それを周りの人々に伝えることができないのならば、その真理はそれ以上はどこへも広がっていかず、世界にも人々にも何ら有益な影響をもたらすことがないということが帰結することになります。
たとえ、真理を知ることができる稀有な人物が現れたとしても、
その真理を誰か他の人間へと伝えることができないとするならば、
その真理は、世界に対して何か新しい進展をもたらすこともないままに、
その人物の死と共に、彼が有したすべての思想と知識は再び無へと帰することになってしまうということです。
そして、
元から何も無いならば、それ以上は言うまでもなく、
仮に何かがあったとしても、それを知ることができず、伝えることもできないならば、
それは結局、元から何も無かったのと同じということになるので、
すべての存在が等しく無意味で無価値であるという
虚無主義の結論が帰結することになるのです。
・・・
以上のように、
この世界には普遍的真理や絶対的真理といったものは存在せず、すべての存在と価値は相対的なものに過ぎないと考えるゴルギアスを含むソフィストたちの思想は、
その思想と論理を極限まで突き詰めていくと、究極的には、
すべての物事の根源にはただ虚無だけがあり、
普遍的真理や絶対的な善や正義などというものはこの世界のどこにも存在せず、
何をやっても、どこまで行っても、そのすべての行為が根本的に無意味であり、
結局、元から何も無かったのと同じであるという
どこまでも果てしなく暗く、絶望的な暗闇が広がる
虚無主義(ニヒリズム)の思想へと行き着くことになると考えられるのです。
そして、このことは、逆に言うと、
世界や人生に何らかの意味と価値を見いだし、それらを有意義なものとするためには、
何らかの普遍的真理や絶対的な善の存在を探究していく哲学的探究の営みが必要となるということを意味することにもなるのです。
・・・
このシリーズの前回記事:「何も存在しない。知ることも、伝えることもできはしない。」ゴルギアスの箴言②、絶対的真理を否定する三段階の論証
このシリーズの次回記事:ゴルギアスの相対主義と自己言及のパラドックス①何も知り得ないということを知り得るのか?
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