空気と気息の循環による生命論的宇宙観
「アナクシメネスの哲学の概要」で書いたように、
アナクシメネスは、
万物の始原は、空気(aer、アーエール)である
と考えましたが、
その万物の根源的原理である
空気(アーエール)について、
アナクシメネスは、さらに、
以下のように述べています。
我々の魂は空気(アーエール)であり、
それが我々を統括している。
それと同じように、
気息(プネウマ)と空気が
宇宙全体を包括しているのである。
(アナクシメネス・断片2)
つまり、
大地を含む世界全体が、
始原である空気に包まれていて、
その空気の循環によって、
宇宙は成り立っているということですが、
アナクシメネスは、
そうした始原としての
空気の循環は、
生命の原理である
気息(pneuma、プネウマ)の循環でもあると考え、
その
気息である空気によって、
宇宙全体も、
人間の魂も統括されている
と考えたのです。
生命力の源としての魂
このように、いきなり、
「魂は空気である」
と言われてしまうと、
一瞬なんのことを言っているのか分からなくなるような
言葉の違和感を感じるように思いますが、
この違和感は、
「魂」(psyche、プシュケー)という概念に対する
現代人と古代ギリシア人とのイメージの違いに
由来するものと考えられます。
現代では、
「魂」というと、
心や霊、精神といった概念とほぼ同じ意味で使われる言葉で、
肉体とは別に存在する精神的実体
といったイメージが強いと思いますが、
古代ギリシアでは、
例えば、アリストテレスも、
『魂について(De anima)』第2巻の第3章で、
「魂は、栄養摂取、知覚、思考、運動などの原理である」
と述べているように、
「魂」という概念は、現代よりも、
かなり広い意味の概念として使われていました。
現代人にとっても、
思考はもちろん、知覚くらいまでなら、
それが「魂」の働きであると、ある程度認めることができるように思いますが、
運動や、栄養摂取となると、
それは、心や精神ではなく、むしろ、
肉体の働きであるので、
そうしたものまで「魂」の働きであると言われてしまうと、
強い違和感を感じることになってしまうと思われますが、
古代ギリシアでは、このように、
「魂」という概念は、生物と無生物を分ける
生命の原理という広い意味で使われていたので、
こうした概念の解釈の齟齬が生じてしまうと考えられます。
したがって、
上記のアナクシメネスの記述においても、
「魂」という言葉は、
肉体とは別の精神的実体
といった意味ではなく、
栄養摂取や運動なども含めた、広い意味での
生命の原理、生命の源
といった意味で使われていると考えられるので、
アナクシメネスの
「魂は空気」である、という言葉も、
魂、すなわち、
生命力の源は、空気である
という意味で述べられていると考えられるのです。
呼吸する宇宙
以上のように考えると、
アナクシメネスの
空気(アーエール)とは、
もはや、ただの物質としての空気ではなく、
生命力の源でもある、
生きた空気ということになりますが、
アナクシメネスは、
人間や生物が、こうした生命力の源としての空気を
吸気として吸い込み、
吸い込んだ空気が
体内を循環して、
再び呼気として吐き出される
ことによって生命を維持しているように、
宇宙全体も、
一つの生命体となって呼吸するように、
その内部を空気が循環することによって維持されていて、
宇宙の呼吸という
宇宙全体の気息(プネウマ)の循環
によって、世界が成り立っていると考えたのです。
アナクシメネスにとって、
空気は、もはや、
単なる無味乾燥な無色透明の無機物ではなく、
言わば、
生命力に満ちた、命の光に満たされている
輝く大気であって、
その生命力に輝く大気を胸いっぱいに吸い込むことによって、
人間や生物は活力を得て、生きることができるように、
宇宙全体も、生命力に満たされた大気が
自らの内を循環することによって成り立っている
と考えたということです。
そして、
このようなアナクシメネスの考えにしたがうと、
生命力の源である
宇宙の大気(アーエール)によって、
人間や生物に生命力が与えられ、
その人間や生物が
自らの生きた息(プネウマ)を吐くことによって、
大気に動きがもたらされ、
その動きが大気の循環を生むことによって、再び
宇宙全体の生命力の源となるというように、
気息(プネウマ)を介して、
マクロコスモス(宇宙)とミクロコスモス(人間、生物)の間を
生命が循環していく、
壮大な生命論的宇宙観が展開されることになるのです。
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このシリーズの次の記事:
「プネウマ(息)と東洋思想の気の概念」
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