レウクトラの戦いにおけるテーバイ軍の圧倒的勝利とペロポネソス半島への侵攻とメッセニアの解放によるスパルタの国力の衰退
前回までに書いてきたように、古代ギリシアの覇権がスパルタからテーバイへと移っていく転換点となったレウクトラの戦いは、
テーバイの名将であったエパミノンダスによって考案された斜線陣と呼ばれる重装歩兵の新戦術と、ペロピダスが率いる神聖隊の活躍によってテーバイ軍の勝利に終わることになります。
そしてその後、レウクトラの戦いでの勝利によって勢力を大きく増大していくことになったテーバイ軍を中心とするボイオティア同盟の軍勢は、
その勢いを駆ってスパルタを中心とするペロポネソス同盟の勢力圏にあたるペロポネソス半島への侵攻を開始していくことになるのです。
レウクトラの戦いにおけるテーバイ軍の圧倒的勝利
紀元前371年に起きたレウクトラの戦いにおいては、
テーバイを盟主とするボイオティア同盟軍の重装歩兵を主力とする7000の軍勢と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟の同じく重装歩兵を主力とする1万の軍勢が、
ギリシア中部のボイオティア地方に位置する平野であったレウクトラの地において激突することになります。
そして、レウクトラの戦いでは、ギリシア最強の陸軍として恐れられていたスパルタの重装歩兵を擁するうえに数においても勝るペロポネソス同盟の軍勢に対して、
ボイオティア同盟軍を率いるテーバイの名将であったエパミノンダスは、斜線陣と呼ばれる左翼のみに兵力を集中させた不均等な陣形を特徴とする重装歩兵の密集陣形における新戦術を導入することによって対抗することになります。
開戦と同時に、重厚な兵力が投入されたテーバイ軍の左翼の重装歩兵の軍団が突撃を開始する一方で、兵力が手薄になっている右翼の軍団の進軍を遅らせることによって左翼から右翼へと斜めに下がっていく陣形が構築されていくことになり、
主力となる左翼の先陣を任されることになったペロピダスが率いるテーバイ軍の精鋭歩兵部隊である神聖隊の奮戦もあってテーバイ軍の左翼がスパルタ軍の右翼を食い破ると、
そのまま遅れて進軍してきた右翼の軍団と前線を突破して敵陣の裏側へと回り込んだ左翼の軍団で残されたスパルタ軍の兵士たちを挟み撃ちにしていくことになります。
こうしてレウクトラの戦いは、
テーバイを中心とするボイオティア同盟軍の側の戦死者の数がわずか50人から多くても300人程度であったのに対して、
スパルタを中心とするペロポネソス同盟の側の戦死者の数は1000人から4000人以上にもおよぶという大損害を被ることによって、テーバイ軍の側の大勝利に終わることになるのです。
テーバイ軍のペロポネソス半島への侵攻
そして、こうしたレウクトラの戦いにおけるテーバイ軍の圧倒的な勝利を目にしたギリシアの各都市は、次々にテーバイの覇権のもとへとつき従っていくことによって、
一時は、テッサリアからマケドニアにまで至るギリシア世界の広大な領域がテーバイの勢力下へと入っていくことになります。
そしてその後、ギリシアの各地から兵を募って大規模な遠征軍の準備を整えたテーバイの名将であるエパミノンダスは、7万にもおよぶ大軍を引き連れてスパルタの勢力圏であるペロポネソス半島への侵攻を開始していくことになります。
こうしてレウクトラの戦いの1年後にあたる紀元前370年頃からはじまったテーバイによるペロポネソス半島への侵攻においては、スパルタの側も決死の覚悟で防戦を続けていくことによって、何とかスパルタ本国の占領だけは免れることになるのですが、
長いあいだヘイロタイと呼ばれる奴隷階級としてスパルタの支配のもとに服してきたメッセニアの人々がこうしたエパミノンダス率いるテーバイ軍のペロポネソス半島への侵攻に呼応して蜂起することによって、
メッセニアはヘイロタイのくびきから解放されたうえで都市国家としての独立を回復することになるのです。
メッセニアの解放によるスパルタの国力の衰退
そして、こうしたテーバイ軍の侵攻に呼応したメッセニアの解放によって、スパルタは国土の半分におよぶ土地を失うと同時に、労働力となる大量のヘイロタイをも失うことになるのですが、
そもそも、スパルタ軍の強さは、土地の耕作といった大部分の経済活動をヘイロタイと呼ばれる市民共有の奴隷たちに行わせたうえで、重装歩兵となるスパルタ市民たちは自らの武の力の磨くのに専念することによって生み出されていたので、
そうしたスパルタの武力の源となっていたヘイロタイという資産の大半が失われることになったスパルタでは国家体制のあり方そのものが大きく揺るがされていくことになります。
そして、こうしたメッセニアの解放とそれに伴うヘイロタイの減少によってスパルタの国力は大きく衰退していくことになり、
それに代わって、テーバイがギリシア世界の覇者として君臨していく時代が訪れることになるのです。