ペリクレスによるアテナイの民主政の完成と指導者としての優れた弁論術と合理的な思考を示す二つのエピソード
前回書いたように、ペルシア戦争におけるサラミスの海戦による勝利を一つの契機として海軍国家として隆盛していくことになったアテナイは、
紀元前477年に、ペルシア軍のギリシアへの再侵攻に備えることを名目として、自らを盟主とする軍事同盟であるデロス同盟を結成することになります。
そしてその後、アテナイは、ギリシア中の同盟諸都市から拠出されたデロス同盟の資金を自らの裁量で自由に使っていくことによって、
ギリシア世界を率いる最大の経済大国であると同時に軍事大国としても昇りつめていくことになるのですが、
こうしたアテナイの黄金時代において都市国家の指導者として君臨することになった人物としてはペリクレスの名が挙げられることになります。
幼少期のペリクレスが受けた英才教育と哲学者アナクサゴラスとの関係
紀元前5世紀のアテナイの政治家にして軍人でもあったペリクレスは、紀元前495年頃に、
ペルシア戦争においてアテナイ海軍を率いた指揮官の一人でもあった優秀な軍人であったクサンティッポスと、
アテナイ随一の名門貴族であるアルクメオン家の出身であり、アテナイの民主政の礎を築いた政治家であったクレイステネスの姪にもあたるアガリステとの間に生まれることになります。
そして、
幼少時代から、音楽と弁論術に優れた教師であったダモンと呼ばれる人物に学ぶことによって英才教育を施されることになったペリクレスは、若いうちから弁舌などにおいて優れた才能を開花させていくことになり、
さらに、当時アテナイへと移り住んでいた古代ギリシアを代表する自然哲学者であったアナクサゴラスにも学ぶことによって、哲学的な合理的思考と深い教養を身につけていくことになるのです。
ペリクレスによる政治権力の掌握とアテナイの民主政の完成
そしてその後、
弁舌における優れた能力だけではなく、軍事的な経験と知識をも身につけていくことによって、軍人としての名声を広く集めていくことになったペリクレスは、
紀元前462年に、貴族派の首領であったキモンがスパルタでの反乱を鎮圧するための援軍の派遣を自ら申し出てアテナイを留守にしている間に、
民主派の首領であったエフィアルテスと協力して貴族派の牙城であった古代ギリシアの元老院にあたるアレオパゴス会議の実権を奪取したうえで、
そのすべての権限を民会や500人評議会といった民主的な政治機関へと移譲することによって、アテナイの民主政を完成期へと導いていくことになります。
そして、その翌年にあたる紀元前461年に、
スパルタへの援軍に向かいながら、反乱に乗じて侵略しに来たと誤解されて追い返されてしまうという失態を演じることになった貴族派のキモンを陶片追放によってアテナイの国外へと追放することに成功したペリクレスは、
その後、共に改革の主導してきた民主派の首領であったエフィアルテスが暗殺されることになると、アテナイの民主派を代表する政治家として台頭していくことになります。
そして、さらに、
紀元前443年に、対立する保守派の勢力の首領であったトゥキディデスを陶片追放によってアテナイの国外へと追放したペリクレスは、
その後、紀元前443年から紀元前430年までの14年間にわたってストラテゴスと呼ばれるアテナイの軍事指揮官にあたる実質的な最高職に君臨し続けることになるのです。
ペリクレスの優れた弁論術と合理的な思考を示す二つのエピソード
それでは、
こうしたアテナイの黄金時代とも言われる全盛期を築いていくことになったアテナイの指導者であるペリクレスは具体的にどのような人物であったのかというと、
彼は、まずは、巧みな弁舌によって人々を説得することに優れた弁論術に長けた人物であったと伝えられていて、
例えば、ある時、
ペリクレスが同盟諸国全体の防備のために使うべきデロス同盟の資金を使って、アテナイにおけるパルテノン神殿の建設を進めていることを知った人々が、
同盟の資金を本来の目的以外のことに流用することは不正であるとしてペリクレスのことを非難したところ、彼は、
「商人は約束通りに商品を売り渡す限り、買い手から受け取った代金を何に使うかは商人の自由である。
それと同様に、同盟諸国は自国の防衛のためにアテナイに資金を出しているのだから、
アテナイが約束通りに同盟諸国の防衛の責任を果たしている限り、彼らから受け取った資金を何に使うかはアテナイの自由である。」
と語ってそうした非難を堂々退けることになったと伝えられています。
また、
アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟との戦いであるペロポネソス戦争がはじまった当初、アテナイでは日食が起こることなり、
兵士たちは日食によって暗くなっていく空を見上げて不吉な前兆だと言って騒ぎ出すことになるのですが、
その様子を見ていたペリクレスは、自分が着ていたマントを脱いで一人の兵士の目の前に広げて見せたうえで、
「お前はこれを見て不吉な前兆だと思うかね?」と尋ねたうえで、その兵士が否と答えると、
「日食もこれと同じことなのだ。マントよりもずっと大きな物体が太陽の光をさえぎっているだけにすぎないのだから。」
と語って、瞬く間に兵士たちの不安と混乱を鎮めて見せたと語り伝えられています。
このように、
アテナイの指導者としてその全盛期を築いていくことになったペリクレスは、
優れた演説によって人々の心を強く引きつける弁舌の才能に優れた政治家であると同時に、合理的な思考によって常に物事を冷静に判断して国を導いていくことができる優れた指揮官でもあったと考えられることになるのです。
籠城中のアテナイでの疫病の流行とペリクレスの死
そして、
紀元前431年に、アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟が衝突することになるギリシア世界を二分する大きな戦いであるペロポネソス戦争がはじまることになっても、
ペリクレスは、引き続き自らの優れた政治的手腕と冷静な判断によって的確にアテナイを導いていくことになります。
ギリシア最強の陸軍国家であるスパルタとの陸上での決戦を行うことは得策ではないと考えたペリクレスは、
都市を守る強固な防壁の内部へとアテナイ市民たちを避難させることによって、スパルタ軍に対して籠城戦を挑んでいくことになります。
ギリシア最大の経済大国にして海軍国家であったアテナイは、エーゲ海を通じた海上貿易によって、十分な食糧を国内へと輸送することができ、
アテナイが有利な海軍力を駆使して、スパルタの勢力圏であるペロポネソス半島の沿岸部を荒らし回ることで経済的にも大きな打撃を与えていくことによって、戦況を有利に展開させていくことになるのです。
しかし、
こうしてペロポネソス戦争がはじまることになった直後、当時、ギリシアの東方に位置するペルシア領内において流行していた疫病がアテナイの外港にあたるピレウス港からアテナイ市内へと入ってくることになり、
ペロポネソス戦争における籠城中のアテナイでは、こうしたペストであったとも伝えられている疫病の大流行が引き起こされることによって大打撃を受けてしまうことになります。
そして、その後も、
アテナイにおいては、数年間にわたって疫病の流行が断続的に繰り返されていくことになり、こうした疫病の流行によってアテナイが受けることになった被害は、戦争によって受けた被害よりもはるかに大きく、
当時のアテナイの人口の4分の1とも6分の1とも言われる人々が病気により命を落とすことになったと伝えられています。
そして、その後、
アテナイの指導者であったペリクレスも、こうした疫病の流行がやっと終わりかける兆しの見えてきた紀元前429年に、自らも疫病にかかって命を落としてしまうことになります。
そして、
こうした疫病の流行という不運によって有能な指導者であったペリクレスを失うことによってアテナイの黄金時代は終わりを迎えることになり、
その後のアテナイはかつての繁栄を取り戻すことはなく凋落の一途をたどっていくことになるのです。