陶片追放(オストラキスモス)とは何か?古代ギリシア語におけるオストラコンの意味とアテナイでの実際の制度運用の歴史

前回書いたように、紀元前508にはじまるクレイステネス改革においては、10部族制と呼ばれる新たに制定された地域的な部族制度に基づいてアテナイの民主政の基盤が築かれていくことになっていったと考えられるのですが、

こうしたクレイステネス改革においては、陶片追放(オストラキスモス)と呼ばれる少し変わった秘密投票に基づく追放制度の導入も進められていくことになっていったと考えられることになります。

スポンサーリンク

古代ギリシア語におけるオストラコンの意味と「陶片」と「貝殻」の違い

アテネのアクロポリスの井戸から出土した紀元前482年のオストラコン

(アテネのアクロポリスの井戸から出土した紀元前482年のオストラコン:出典:Wikimedia Commons:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Athen_Stoa_Ostrakismos_2.jpg Ancient Agora Museum in Athens, Credit: Xocolatl , 2008)

そうすると、まず、

日本語において陶片追放と呼ばれるこの制度は、古代ギリシア語では、オストラキスモス(ὀστρακισμός)、英語ではオストラシズム(ostracism)と呼ばれることになるのですが、

こうした古代ギリシア語におけるオストラキスモス(ὀστρακισμός)という言葉は、もともと、土器や陶器の破片のことを意味するオストラコン(ὄστρακον)という古代ギリシア語の単語に由来する言葉であったと考えられることになります。

クレイステネス改革によって制定されたと伝えられている古代ギリシア民主政期のアテナイにおいて行われていたこの追放制度においては、

陶器の破片に僭主や独裁者となるおそれのある人物の名前を記したうえで、投票者が誰の名を書いたかは分からない状態で票を投じる秘密投票が行われることになり、

この秘密投票において6000票とも言われる一定数を超える自分の名前を書かれた人物は、10年間の国外追放の処分が下されることになっていたため、

こうした陶器の破片のことを意味するオストラコンに由来するオストラキスモスという呼び名がこうしたアテナイの追放制度のことを意味する言葉として用いられるようになっていったと考えられることになります。

ちなみに、

こうしたオストラキスモス(陶片追放)と呼ばれるアテナイの追放制度については、かつて日本では誤って「貝殻追放」という訳語が用いられていたこともあるのですが、

そもそも、こうした古代ギリシア語において陶器の破片のことを意味するオストラコン(ὄστρακον)という単語そのものの語源は、

同じ古代ギリシア語においてカキなどの二枚貝の貝殻のことを意味していたオストレイオン(ὄστρειον)という単語に求められることになるので、

そういった意味では、

こうした「貝殻追放」という日本語における誤訳も、古代ギリシア語における語源的な意味においては、まったくの的外れの訳語であったとまでは言い切れないところもあると考えられることになるのです。

スポンサーリンク

アテナイにおける陶片追放の歴史と実際の制度運用

そして、

こうした陶片追放(オストラキスモス)と呼ばれるアテナイの追放制度は、

もともと、クレイステネスが登場する前にアテナイを支配していた僭主ヒッピアスの暴政を教訓として新たに導入されることになった制度であったと考えられていて、

陶片追放における国外追放の主な目的は、

アテナイにおいて軍事力などを用いた非合法な手段によって政権を掌握する僭主が再び現れることを防止するために、

そうした僭主へと変貌する危険性が危惧される有力貴族や政治家たちを一定期間アテナイの政治から遠ざけることにあったと考えられることになります。

したがって、通常の民衆裁判における国外追放の処分の場合とは異なり、

陶片追放によって国外へと退去させられることになった有力貴族や政治家に対しては、市民権の剥奪といった財産の没収といった不名誉な処分が下されることはなく

10年間の追放期間を終えてアテナイへと帰還した有力者たちは元の地位を取り戻したうえで再び政治の表舞台で活躍することも可能であったと考えられることになります。

そして、

アテナイにおいて陶片追放が実際に行われることになったのは、紀元前480年代に入ってからであったと考えられていて、

それから60年間ほどの間に、アテナイにおいてはこの制度の制定者であったと伝えられているクレイステネスの甥にあたるメガクレスを含む12人以上の有力者に対して陶片追放による国外退去の処分が下されていくことになります。

そして、その後、

こうした陶片追放と呼ばれる追放制度は、僭主の出現の防止という制度本来の目的を離れて、有力者同士の権力闘争において反対派の政治家を追放するための政争の具として濫用されていくことになってしまったため、

紀元前417年ごろに行われたと考えられるヒュペルボロスという名のペロポネソス戦争期のアテナイにおける煽動政治家の追放を最後として、

こうした陶片追放あるいはオストラキスモスと呼ばれる秘密投票に基づく特殊な追放制度は実施されることがなくなり、そのまま廃れていくことになっていったと考えられることになるのです。 

・・・

次回記事:アケメネス朝ペルシアの台頭とペルシア戦争の背景となったフェニキア人とギリシア人の王女たちの略奪をめぐる因縁の物語

前回記事:クレイステネスの改革と10部族制によるアテナイの民主政の基盤の形成:血縁関係と地縁関係に基づく二つの部族制度の違い

古代ギリシア史のカテゴリーへ

ギリシア語のカテゴリーへ

スポンサーリンク
サブコンテンツ

このページの先頭へ