アルクメオンの血の穢れとイサゴラスの台頭をめぐるクレイステネスのアテナイからの追放と寡頭派の粛清後のアルコンへの就任

前回書いたように、ペイシストラトスの後を継いでアテナイにおける二代目の僭主の座へとついたヒッピアスは、弟ヒッパルコスが暗殺されたのち暴君へと変貌していくことになり、

こうしたヒッピアスの暴政は、財力と政治力に長けていたアテナイの名門貴族の一家であったアルクメオン家の人々と、彼らに手を貸したスパルタ王クレオメネス1世が率いるスパルタ軍によって打倒されることになります。

しかし、こうして暴君ヒッピアスが東方のペルシア帝国へと逃亡した後もアテナイにおいては一時的な政治的な混乱が続いていくことになります。

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スパルタ王クレオメネス1世の政治介入とクレイステネスの登場

紀元前510年、アテナイ市民たちは自分たちのライバルでもある古代ギリシアの都市国家であったスパルタの力を借りることによって暴君ヒッピアスを追放することに成功することになるのですが、

その後、この機会にアテナイへのさらなる政治的影響力の拡大を図ろうとしていたスパルタ王クレオメネス1世と、アテナイの一部の貴族たちが手を組むことによって、スパルタの息のかかった少数の貴族たちによる寡頭政治の復活が目指されていくことになります。

しかし、

こうしたスパルタ王と一部の貴族たちの試みに対して、アテナイ市民たちの多くは、より民主的な政治の実現を求めていくことになり、そうしたアテナイ市民たちの求めに応じる形で、

暴君ヒッピアスからのアテナイ解放に力を尽くしたアルクメオン家の一員でもあったクレイステネスが彼らの代表者として立ち上がることになります。

そして、こうしたヒッピアスの暴政から解放された当初のアテナイにおいては、

スパルタ王と結んだ一部の貴族たちを中心とする寡頭政治の復活を目指す政治勢力と、クレイステネスを筆頭とする民主化の推進を目指す政治勢力とが互いに反目する対立構造が形成されていくことになっていったと考えられることになるのです。

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アルクメオンの血の穢れとイサゴラスの台頭

そして、

アテナイの民主化を求める政治勢力の代表としてはアルクメオン家の一人であったクレイステネスが立つことになったのに対して、

これに対抗する寡頭政治の復活を目指す政治勢力の一派は、自分たちの代表としてスパルタ王と結んだアテナイの貴族の一人であったイサゴラスを立てることになります。

そして、

こうして寡頭派を代表する論客となったイサゴラスは、

民主派の代表者であるクレイステネスの名誉を傷つけるために、彼の家柄であるアルクメオンの血の穢れを引き合いに出すことによって、この政争を自らの有利なものにするよう画策していくことになります。

アテナイの名門貴族であったアルクメオン家は、ギリシア神話における英雄ネストルを祖先とするとも伝えられる古い歴史を持つ名家であったものの、

そうしたアルクメオン家の長い歴史においては、先祖たちが犯した罪による穢れという暗い影を引き継いできたという面もあったと考えられることになります。

かつて、貴族政の時代のアテナイにおいて、

アルクメオン家と対立関係にあったアテナイの貴族であったキュロンという名の人物が僭主政治の樹立を目指して、アテナイの中心地にあたるアクロポリスを占拠した際に、

アテナイの指導者の立場にあたるアルコンの地位にあった当時のアルクメオン家の当主であったメガクレスは自らの兵を率いてアクロポリスを包囲することになります。

そして、その際、

メガクレスはアクロポリスに立てこもるキュロンの支持者たちに対して、命を助けると約束して彼らに降伏することを勧めておきながら、彼らがその約束を信じて外へ出てくると、

そのまま彼らのことを正式な裁判を終えることなく石で打ち殺してしまったとされていて、

その後、アルクメオン家の人々は、こうしたメガクレスが犯した罪の穢れを負わされることによって、長きにわたってアテナイから追放されてしまうことになったと語り伝えられているのです。

クレイステネスのアテナイからの追放とアルコンへの就任

そして、その後、

アルクメオン家の一員であったクレイステネスは、こうしたイサゴラスの策略によって持ち出されたアルクメオンの血の穢れを口実としてアテナイから追放されることになるですが、

こうしたイサゴラスを中心とするスパルタ王と結んだ一部の貴族たちによる暴政は長続きせず

彼らの暴政に対して反乱を起こしたアテナイ市民たちによって、イサゴラスとその支持者たちが立てこもるアクロポリスが包囲されてしまうことになります。

そして、

情勢の不利をさとったイサゴラスは国外へと逃亡し、協力者であったスパルタ王クレオメネス1世アテナイを退去することになると、

アテナイの市民たちは、後に残されたイサゴラスの支持者たち300人を処刑したのち、民主派の代表であったクレイステネスをアテナイへと迎え入れることになります。

そして、その後、

クレイステネスアテナイ市民たちの支持を集めることによって、アルコンと呼ばれるアテナイの執政官へと任命されることになりアテナイの民主化へとつながる一連の改革を実行していくことになるのですが、

このように、クレイステネスにはじまるアテナイの民主政の礎は、ヒッピアスの暴政やイサゴラスの支持者たちの粛清の血のうえに築かれていくことになっていったと考えられることになるのです。

・・・

次回記事:クレイステネスの改革と10部族制によるアテナイの民主政の基盤の形成:血縁関係と地縁関係に基づく二つの部族制度の違い

前回記事:ヒッピアスの暴政の打倒へと動くアルクメオン家の人々とスパルタ王クレオメネス1世によるアテナイの解放

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