ミノア文明の成立から滅亡までの歴史とエヴァンズによるクノッソス宮殿の発掘とギリシア神話における巨大な迷宮

前回書いたように、エーゲ文明を代表する三文明のなかで最初に頭角を現すことになったのはシュリーマンによって遺跡の発掘がなされた古代都市トロイアを中心とするトロイア文明であったと考えられることになるのですが、

その後、こうした古代都市トロイアやギリシア本土の南に位置するエーゲ海そして地中海最大の島であるクレタ島を中心ミノア文明あるいはクレタ文明と呼ばれる海洋文明が花開いていくことになります。

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エヴァンズによるミノア文明の発見とギリシア神話のクノッソスの迷宮

ミノア文明の中心地であるクレタ島とギリシア本土との位置関係

トロイア文明ドイツの考古学者であったシュリーマンによって1871年に発見されたのに対して、

こうしたエーゲ海に浮かぶクレタ島を中心とする地中海文明であるミノア文明イギリスの考古学者であったアーサー・エヴァンズによって1900年に発見されることになります。

エヴァンズは自らの足でクレタ島の全域を踏破したのち、島の中央部から見て北西に位置するケファラの丘で行った発掘調査において、

ギリシア神話においてクレタ島を支配した伝説の王であるミノス王が築いた迷宮として知れられるクノッソス宮殿を発掘することによって、

この地に洗練された文化高度な文明を持った地中海文明が存在したことを発見し、かつてエーゲ海に存在したこの文明のことをクレタの伝説の王でありクノッソス宮殿の主であったと伝えられているミノス王の名にちなんで、ミノア文明と名づけることになります。

こうしたギリシア神話において語られているラビュリントスとも呼ばれるクノッソスの迷宮は、ミノス王の命を受けた名工ダイダロスによって築かれた脱出不可能とも語り伝えられる通路が複雑に入り組んだ巨大な迷宮であったとされていて、

神話の物語においては、こうしたクノッソスの迷宮の最深部には牛頭人身の怪物であったミノタウロスが閉じ込められていたと語り伝えられているのですが、

エヴァンズの発掘によって発見された実際のクノッソス宮殿も、ギリシア神話で語られている脱出不可能な迷宮とまではいかないまでも、

宮殿の第一階層だけでも100を超える部屋に分かれていて、中央には広い中庭があり、宮殿自体が斜面に建てられていたため、東の棟における三階の部分が西の棟における一階の部分へとつながり、別の場所では四階に位置していることもあるといった、かなり複雑な構造をした迷宮であったことが分かっていて、

宮殿を訪れたある考古学者の手記によれば、彼はこの宮殿を訪れた時、赤い大理石が床一面に敷き詰められた王妃の浴室の間へと入ることができたのですが、

宮殿を離れる前に、もう一度その美しい部屋をひと目見ておきたいと思って宮殿の通路をぐるぐると歩き回ってみたところ、その後はどうしてもその部屋へとたどり着くことができなかったと語られています。

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地中海交易によるミノア文明の発展と火山噴火とアカイア人の侵入による滅亡

クノッソス宮殿のイルカのフレスコ画

(クノッソス宮殿のイルカのフレスコ画:出典:Wikimedia Commons:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Dauphins_de_knossos.jpg Delphins of Knossos, Credit: Armagnac-commons, 2010)

こうしたエーゲ海の南部に位置するクレタ島において発展していくことになった地中海文明であるミノア文明においては、

紀元前2000年頃からクノッソスを中心とする島内の各都市において港や宮殿が築かれ、地中海交易によって発展していくことになり、

下地に漆喰を用いた壁画であるフレスコ画漆器や陶磁器などの工芸品が数多く生み出されていくことになるほか、紀元前18世紀ごろになると線文字Aクレタ聖刻文字と呼ばれる文字の使用も行われていくことになります。

クノッソス宮殿に代表されるクレタ島各地の遺跡においては、豊かな宮廷生活の様子や生き生きとした魚や動物たちの姿が描かれた明るい色彩自由でのびやかな筆致などを特徴とする美しい壁画が数多く発見されていて、

こうした遺跡から出土する数々の壁画や工芸品の姿からは、この地にかつて存在したミノア文明における洗練された文化高度な文明の様子をうかがい知ることができると考えられることになります。

そして、

こうしたクノッソス宮殿を築いたとされるミノス王に象徴されるクレタ島を統治していた歴代の王たちは、エジプトやオリエントの文明の影響などを受けることによって、強大な王権による東方的な専制政治に基づく統治を行っていたと考えられていて、

そうしたクレタの王による支配と権威は、ミノア文明の中心地となったクレタ島だけではなく、最盛期には、北方に位置するエーゲ海の島々の全域にまでおよぶことになっていったと考えられることなります。

しかし、その後、

こうしたミノア文明と呼ばれる地中海の古代文明は、クレタ島の北方に位置する近隣のエーゲ海の島であったサントリーニ島の火山噴火やその前後に起きたと考えられる大地震などの影響もあって徐々に衰退していくことになっていったと考えられ、

紀元前1400年頃になると、ギリシアペロポネソス半島を中心に興隆したミケーネ文明の担い手であったギリシア人の一派であるアカイア人たちの侵入によって、歴史の表舞台からは姿を消してしまうことになっていったと考えられることになるのです。

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次回記事:ミケーネ文明の成立から海の民とドーリア人の侵入による滅亡までの歴史と線文字Bによる古代ギリシア世界の文字文化の定着

前回記事:トロイア文明の成立から滅亡までの歴史と詩人ホメロスが語る古代都市トロイアの物語に触発されたシュリーマンの発掘事業

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