古代バビロニア天文学へと遡る西洋占星術の起源と黄道十二宮の基点となる春分点の位置の変遷

前回の記事で書いたように、西洋占星術の土台となる白羊宮金牛宮といった黄道十二宮と呼ばれる天球上の太陽の通り道にあたる黄道を中心とする黄道帯における十二の領域は、

地球上からの観測において、そうした黄道帯と呼ばれる天球上の帯状の領域のうちに実際に観測されていくことになる黄道十二星座と呼ばれるおひつじ座おうし座といった主要な十二の星座と一対一の対応関係で互いに結びつけられていくことになると考えられることになるのですが、

こうした黄道十二宮黄道十二星座との直接的な対応関係のあり方は、西洋占星術の土台となった古代ギリシアにおける天文学と占星術よりもさらに以前へと遡る古代バビロニアの天文学のうちにその大本の起源を求めていくことができると考えられることになります。

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古代バビロニアの天文学と占星術へと遡る西洋占星術の起源

世界四大文明のうちの一つにあたるメソポタミア文明の発祥の地にもあたる古代バビロニアでは、現在から4000年ほどの昔の紀元前2000ごろの時代において、すでに、

天体観測によって太陽や月やその他の星々位置関係や周期を明らかにしていこうとする天文学的な探求と、そうした天上の世界における天体の運行のあり方と地上の世界に起こる様々な出来事を互いに結びつけて物事の吉凶を占っていく占星術の探求が行われていたと考えられていて、

現代では黄道十二宮と呼ばれている黄道帯における十二の領域の区分のあり方が定められていくことになったのも、そうした古代バビロニアの時代であったと考えられることになります。

そして、具体的には、

だいたい紀元前1000ごろの時代に、それまで太陽の通り道にあたる黄道を中心とする帯状の領域において実際に観測されることになる星座を目印として整備されてきた一年における暦の流れの基準となる天球上における太陽の位置に基づく領域の区分のあり方が、

その時代の古代バビロニアにおける占星術と結びつけられていくことによってさらに複雑な形で発展していくことになったのが、

こうした黄道十二宮と呼ばれる天球上の黄道帯における十二の領域の区分のあり方の大本の起源として位置づけられることになると考えられることになるのです。

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古代バビロニアから現代へと至るまでの黄道十二宮の基点となる春分点の位置の変遷

以上のように、

こうした西洋占星術の土台となる黄道十二宮と呼ばれる天球上の黄道帯における十二の領域の区分のあり方は、

基本的には、紀元前1000ごろの古代バビロニアにおける天文学や占星術大本の起源として発展していくことになっていったと考えられることになるのですが、

その一方で、

そうした黄道十二宮の基点となっている春分点の位置は、歳差運動と呼ばれる地球の自転運動の中心軸にあたる地軸の傾きの微細な変化によって、天球における黄道上を2万5800年ほどの周期で少しずつ西へと移動していくことになるため、

紀元前1000年ごろの古代バビロニアから、紀元後2000年を過ぎた現代の時代へと至るまでの3000年のほどの時が流れていく間に、そうした黄道十二宮の基点となる春分点の位置も大きくずれていくことになってしまったと考えられ、

現在の天球上における実際の春分点の位置は、黄道十二宮の最初の領域として位置づけられている白羊宮に対応するおひつじ座の近くではなく、そこからちょうど一領域分ほど西側へずれたうお座の近くに位置していると考えられることになります。

しかし、その一方で、前述したように、

こうした西洋占星術の土台となった黄道十二宮の領域については、その大本の起源となる古代バビロニアの時代において観測された春分点の位置を基準として、天球上における十二の領域のあり方が定められていくことになっていったため、

西洋占星術においては、基本的には現代においても、春分点を基点とする黄道十二宮における最初の領域の名前には、現在の天球上において実際の春分点が位置するうお座に対応する双魚宮ではなく、

そうした西洋占星術の大本の起源として位置づけられることになる紀元前1000ごろの古代バビロニアの時代に春分点が位置していたおひつじ座に対応する白羊宮の名が用いられ続けていると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:現在の春分点がおひつじ座ではなくうお座に位置する理由とは?2000年の周期で黄道十二宮の隣の領域へ移動していく春分点

前回記事:黄道十二宮と黄道十二星座の対応関係とは?黄道帯における十二の領域と主要な十二の星座との一対一の対応関係

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