キリストの荒野の修行が40日間とされる理由とは?旧約聖書の出エジプト記におけるモーセの十戒との関係
前々回の記事で書いたように、キリスト教において、キリストの十字架の死から復活を祝う復活祭の前に行われる四旬節と呼ばれるキリストの受難を思う祈りの期間がちょうど40日間におよぶことになる直接的な理由としては、
新約聖書において記されているキリストの荒野での40日間の修行と断食についての記述に基づいて、そうした四旬節における40日間におよぶ祈りの期間の長さが定められていくことになっていったと考えられることになります。
それでは、そもそも、
こうしたキリストの荒野での修行の期間の長さがちょうど40日間であったとされている理由については、
さらに聖書におけるどのような記述のうちに、その具体的な理由を求めていくことができると考えられることになるのでしょうか?
旧約聖書の出エジプト記における神からの十戒の言葉を授かる預言者モーセの40日間の断食についての記述
そうすると、聖書の記述において、
こうした40日という期間が修行や断食といった聖なる出来事を象徴するものとして登場するのは、新約聖書におけるキリストの荒野での40日間の修行がはじめてというわけではなく、
例えば、
旧約聖書の出エジプト記の記述においては、エジプトによる圧政と迫害からイスラエルの民を解放した古代イスラエルの指導者であり預言者でもあったであったモーセが神から十戒の言葉を授かる場面においても、
こうした40日という期間が聖なる行いを成し遂げるための神聖なる期間として位置づけられている以下のような記述を見いだしていくことができると考えられることになります。
・・・
主はモーセに言われた。「これらの言葉を書き記しなさい。わたしは、これらの言葉に基づいてあなたと、またイスラエルと契約を結ぶ。」
モーセは主と共に四十日四十夜、そこにとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した。
モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。
(旧約聖書「出エジプト記」34章27節~29節)
・・・
つまり、
こうした旧約聖書の出エジプト記の記述においては、
エジプトの支配からイスラエルの民を解放して脱出させたのち、シナイ山にこもってイスラエルの民と神との間の契約を結んだのち、
その契約の証として十戒(じっかい)と呼ばれる人々が守るべき神聖なる掟である10の戒めの言葉を授かることになったモーセは、
神の言葉にしたがって、そうした十戒の言葉を石板へと書き記していく際に、シナイ山の上に「神と共に四十日」にわたってとどまり続け、
その40日間の間に、食事をとることも水を飲むこともなく断食の行をおこない続けていたということが語られていると考えられることになるのです。
旧約聖書の出エジプト記における神からの十戒の言葉を授かる預言者モーセの40日間の断食についての記述
以上のように、
聖書の記述において、修行や断食を行う聖なる期間の長さとして、40日という期間の長さが語られているのは、新約聖書におけるキリストの荒野での修行と断食についての記述が最初というわけではなく、
旧約聖書の出エジプト記においては、預言者モーセが神から十戒の言葉を授かる際に行ったとされているシナイ山での断食の長さについても、それはちょうど40日間の長さにおよぶものであったということが書き記されていると考えられることになります。
つまり、そういった意味では、
新約聖書において語られているキリストの荒野での修行と断食の長さがちょうど40日間におよぶものであったとされている具体的な理由としては、
旧約聖書において預言者モーセが神から十戒の言葉を授かる際に行ったとされているシナイ山での断食の長さもちょうど40日間におよぶものであったとされていることから、
そうした旧約聖書の預言者モーセに由来する40日間という聖なる期間の長さに基づいて、新約聖書におけるキリストの荒野での修行と断食の期間の長さも40日間と定められていくことになったとも解釈していくことができると考えられることになるのです。
・・・
次回記事:キリスト教で40日と40年が聖なる期間とされる理由とは?旧約聖書と新約聖書において繰り返し現れる40という神聖な数字
前回記事:荒野での40日の修行にはじまり十字架の死からの復活と40日間の神の国の教えに終わる伝道者としてのイエスの生涯、四旬節でキリストの苦難を思う祈りの期間が40日間続く理由②
「旧約聖書」のカテゴリーへ
「宗教・信仰・神秘主義」のカテゴリーへ