詩篇22篇から23篇へと続くイエスの十字架の死と一人一人の人間が自分自身の死と向き合うための道しるべとなる祈りの言葉

前々回前回の記事で書いてきたように、旧約聖書詩篇22において歌われているダビデの賛歌においては、キリスト教の立場から見ると、

その後の新約聖書におけるイエスの十字架の死の意味を解き明かしていくような預言の言葉が書き記されているとも捉えることができるのですが、

こうした旧約聖書詩篇22とそれに続く詩篇23において書き記されている聖書の言葉においては、そうしたイエスの十字架の死と共に、

一人一人の人間がいかにして自分自身の人生と死に向き合っていくことができるのか?という人間の人生と死への向き合い方を示す道しるべとなる祈りの言葉が記されているとも考えられることになります。

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詩篇22篇における聖書の言葉と重ねられるイエスの十字架の死

まず、

こうした詩篇22篇と23篇という旧約聖書における二つの祈りの言葉のうち、前者の詩篇22における聖書の言葉は、以下のような言葉として語られていくことになります。

・・・

わたしの神よ、わたしの神よ。なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。

わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない

だがあなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない

わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る

「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。」

わたしを母の胎から取り出し、その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。母がわたしをみごもったときから、わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。

わたしを遠く離れないでください、苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです

雄牛が群がってわたしを囲み、バシャンの猛牛がわたしに迫る。餌食を前にした獅子のようにうなり、牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。わたしは水となって注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける

口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる

犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを、彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く

主よ、あなただけは、わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ、今すぐにわたしを助けてください

わたしの魂を剣から救い出し、わたしの身を犬どもから救い出してください。獅子の口、雄牛の角からわたしを救い、わたしに答えてください

わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します。主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。

主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます

それゆえ、わたしは大いなる集会で、あなたに賛美をささげ、神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。

貧しい人は食べて満ち足り、主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。

地の果てまで、すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。命に溢れてこの地に住む者はことごとく、主にひれ伏し、塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。

わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう

(旧約聖書「詩篇」22篇)

・・・

そして、キリスト教の観点においては、

こうした旧約聖書詩篇22における祈りの言葉のなかの最初の言葉である「わたしの神よ、わたしの神よ。なぜわたしをお見捨てになるのか。」という言葉が、

新約聖書マタイによる福音書においては、イエスが十字架の死に際して叫んだと記されている最後の言葉である「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉と重ね合わせられていくことによって、

こうした旧約聖書詩篇22において記されている聖書の言葉は、

時を越えて新約聖書におけるイエスの十字架の死の意味を解き明かす預言の言葉としても位置づけられていくことになると考えられることになるのです。

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詩篇23篇における聖書の言葉と重ねられるイエス・キリストの存在と一人一人の人間が自分自身の死と向き合うための道しるべとなる祈りの言葉

そして、

こうした旧約聖書の詩篇22篇の聖書の言葉に続いて書き記されている詩篇23における祈りの言葉は、以下のような言葉として語られていくことになります。

・・・

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない
主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。

死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れないあなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。

わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。

命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う
主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう

(旧約聖書「詩篇」23篇)

・・・

そして、キリスト教の観点においては、

こうした旧約聖書詩篇23における祈りの言葉のなかで語られている「主」の存在が、すべての人々の罪をその身に引き受けることによって贖う十字架の死を遂げたイエス・キリストその人の存在とも重ね合わせられていくことになると考えられることになるのですが、

そういった意味では、

こうした詩篇23において書き記されている祈りの言葉においては、

最も重く苦しい十字架の死をも乗り越えた主イエスが、死の影の谷を歩むときも、いつもそばに付き添っていて支えていてくださるということを自らの心の内なる信仰の力によって確信していくことを通じて、

イエス・キリストのことを信じる一人一人の人間自分自身の人生といずれ訪れることになる死の瞬間へと向き合うための一つの道筋が指し示されているとも考えられることになります。

・・・

そして、以上のように、

こうした旧約聖書詩篇22詩篇23における聖書の言葉を、互いに深く結びついた一つの神聖な物語のようなものとして見つめるとき、

詩篇22で語られている聖書の言葉においては、

深い苦しみと絶望のなかで自らの心の内に神への信仰と魂の救いを見いだそうとしている正しき人の姿が、十字架のうえで死を迎えるイエスの姿と重ね合わせられていったうえで、

それに続く詩篇23で語られている聖書の言葉においては、

一人一人の人間の魂を正しき道へと導いていく「主」の存在が、そうした十字架の死を乗り越えて永遠の命を得ることになったイエス・キリストその人の存在とも重ね合わせられていくことによって、

そこには、

一人一人の人間が自分自身の人生と死に向かい合うときの一つの道しるべとなる祈りの言葉が書き記されているとも捉えていくことができると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:「主はわが牧者なりわれ乏しきことあらじ」詩篇23篇の祈りの言葉と羊飼いとしての主とイエス・キリストの関係

前回記事:新約聖書のイエスの十字架の死と旧約聖書の預言の言葉を結ぶ永遠の円環と過去と現在と未来の人々にとっての十字架の死の意味

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