カントの哲学思想における魂の不死を示唆する記述、『実践理性批判』の結びの言葉における叡智者としての人間の来世への展開

前回の記事で書いたように、カントの倫理学における思想の集大成が記された書物である『実践理性批判』は、

「我が頭上に輝く星空と、我が心の内なる道徳律」についての記述にはじまる叡智者としての人間の心の内に存在する普遍的な道徳法則に対する感嘆と賛美の言葉によって終幕を迎えることになるのですが、

その言葉のさらに少し後の部分においては、

カントの認識論哲学の部門における主著にあたる『純粋理性批判』においては、人間の理性においてはその存在の有無を確かめることが永久に不可能であるとされていた魂の不死についても、その存在の確証を示唆する以下のような言葉が語られていくことになります。

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『実践理性批判』の結びの言葉における人間の魂の不死を示唆する記述

・・・

(私の心の内なる)道徳法則はその人格性において、動物的な存在との関係を一切もたない。そして、それは感性界に対してあらゆる意味において関わりを持たない生命のあり方を私自身に開示するのである。

少なくとも、私の現存在がこうした道徳法則によって合目的に規定されていることから推論される限りにおいては、まさにこの通りである。

そして、私の現存在に与えられているこうした合目的な規定のあり方は、この世における生命の条件や限界に制限されているわけではなく、来世に至るまで無限に進行していくのである。

(カント『実践理性批判』波多野精一・宮本和吉・篠田英雄訳、岩波文庫、318ページ参照)

・・・

このように、

上記の『実践理性批判』におけるカントの言葉においては、

人間の心の内に存在する道徳法則の存在に基づいて、それが動物的な存在、すなわち、身体を備えた物質的な存在としての感性界における人間の存在の内においては決して見いだされることのない崇高な理念であるということから、

そうした崇高なる理念としての普遍的な道徳法則の存在のあり方に適うように合目的に規定されている叡智界における人間の存在は、その内にある道徳法則の存在とともに、

物質的な世界における生命の制約と限界を超えて、来世と呼ばれるような世界の内へと至るまで無限に進行していくことになるということが語られていると考えられることになります。

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つまり、

こうしたカントの『実践理性批判』における「我が頭上に輝く星空と、我が心の内なる道徳律」についての記述にはじまる結びの言葉のなかでは、

感性界における物質的な存在としての人間の生命はその肉体の死と共に滅びてしまうとしても、叡智界における精神的な存在としての人間の生命は、

そうした叡智者としての人間の存在が、その叡智者という言葉が指し示す通り理性的で道徳的な存在であり続ける限りにおいて、自らの心の内なる普遍的な道徳法則と共に、この世界における限界を超えて来世へと至るまで永続的に存続していくことになるという

人間の生命における死後の生あるいは魂の不死を示唆する思想が語られていると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:カントの道徳哲学を象徴する三つの名文とは?『実践理性批判』の全体像を語る二つの定式と一つの結びの言葉

前回記事:「我が上なる星空と、我が内なる道徳律」カントの倫理学の終幕を飾る言葉が示す被造物と叡智者としての人間の存在の二重性

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