「我が上なる星空と、我が内なる道徳律」カントの倫理学の終幕を飾る言葉が示す被造物と叡智者としての人間の存在の二重性
18世紀のドイツを代表する哲学者であるカントの倫理学の思想の集大成が記された書物である『実践理性批判』においては、その最後を飾る結びの言葉は以下のような言葉によってはじまることになります。
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ここに、我々がそれについて長い時をかけて思念を重ねていくごとに、以前にも増して新たな感嘆と畏敬の念をもって我々の心を満たし続ける二つのものがある。
それは、我が上なる星空と、我が内なる道徳律である。
(カント『実践理性批判』波多野精一・宮本和吉・篠田英雄訳、岩波文庫、317ページ参照)
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そして、
こうした『純粋実践理性』においてカントが語っている「我が上なる星空」と「我が内なる道徳律」という二つの崇高なる存在に対する賛美の言葉の後には、さらに、以下のような言葉が続いていくことになります。
「我が上なる星空と、我が内なる道徳律」の後に続くカントの感嘆の言葉
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ここに、我々がそれについて長い時をかけて思念を重ねていくごとに、以前にも増して新たな感嘆と畏敬の念をもって我々の心を満たし続ける二つのものがある。
それは、我が上なる星空と、我が内なる道徳律である。
私は、いまやこの二つのものを暗黒の内に閉ざされたものとして、あるいは、超越的なものの内に隠されたものとして、その存在を私の意識の外に求め、それについてただ不確かな当て推量をするだけにとどまることを要しない。
私は、この二つのものを現に目の前に見いだしていて、その両者の存在のいずれをも私の現実の意識の内にそのまま結びつけていくことができるのである。
(カント『実践理性批判』波多野精一・宮本和吉・篠田英雄訳、岩波文庫、317ページ参照)
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そして、
こうしたカントが今や自らの意識の内にその真なる姿を実際に見いだすことができるに至ったと語っている二つのものの存在の真理について、
それが具体的にどのような真理であると考えられるのか?ということについては、さらにその先の箇所において語られている以下のような記述のうちに、その具体的な姿を見いだしていくことができると考えられることになります。
現象界における被造物と叡智者としての人間の存在の二重性
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無数の世界の姿を提示する(現象界としての)第一の観点は、動物的な被造物としての私の存在の価値を無きものにする。
このような被創造者は、しばらくの間(私はその長短を知らないが)自らの内に生命を与えられたのちに、自分自身の存在を形づくっている物質をこの星へとすぐに返さなくてはならない。
しかし、これに反して、
(叡智界としての)第二の観点においては、叡智者としての私の存在の価値は、私の人格性を通じて無限に高揚していくことになるのである。
(カント『実践理性批判』波多野精一・宮本和吉・篠田英雄訳、岩波文庫、318ページ参照)
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このように、
上記のカントの『実践理性批判』の結びの部分の記述においては、人間の存在のあり方が、
第一の観点においては、動物的な被造物としての人間、すなわち、「私の頭上に輝く星空」から見下ろされた現象界における物理的存在および動物的存在として捉えられているのに対して、
第二の観点においては、叡智者としての人間の姿、すなわち、「私の心の内なる道徳律」に基づく叡智界における精神的な存在および道徳的な存在としての人間の姿が明らかにされていると考えられることになります。
そして、そういった意味では、
こうしたカントの『実践理性批判』の結びの言葉のうちで語られている
「私の頭上に輝く星空と私の心の内なる道徳律」へのカント自身の深い畏敬と賛美の言葉においては、
カントが感嘆と畏敬の念の内に見いだした二つの崇高なるものの存在においては、
前者の「私の頭上に輝く星空」としての第一の存在においては、私の意識の外なるその存在の崇高さによって、それと対峙する私自身の存在は限りなく卑小で無に等しい存在へと貶められていってしまうのに対して、
後者の「私の心の内なる道徳律」としての第二の存在においては、私の意識の内なるその存在の崇高さによって、その崇高さを自らの心に内包する私自身の存在が宇宙全体をも凌駕するような価値をもった叡智的な存在へと限りなく高められていくことになるということが語られていると考えられることになるのです。
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次回記事:カントの哲学思想における魂の不死を示唆する記述、『実践理性批判』の結びの言葉における叡智者としての人間の来世への展開
前回記事:完全義務と不完全義務の違いとは?カントの倫理学における自己と他者の人格に対する二種類の義務のあり方の具体例
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