ヘーゲル哲学の生命の弁証法的展開において男性と女性のどちらがテーゼとして位置づけられることになるのか?

前回書いたように、ヘーゲルの『精神現象学』において示されている花から実へと進展する植物の生命の弁証法的展開からは、それを人間や動物における生命の弁証法的展開のあり方へも当てはめていくことによって、

女性」をテーゼ(正)男性」をアンチテーゼ(反)としたうえで、両者の存在の間の対立がアウフヘーベン(止揚)されることよってジンテーゼ(合)としての「子供」が誕生するという形で、

人間の生命における弁証法的発展の構造を示すことができると考えられることになります。

ところで、前回の議論では、特に明確な根拠を示すことなく、上記のように人間という種族の生命におけるテーゼを「女性」アンチテーゼを「男性」とする形で議論を進めてしまいましたが、

そもそも、こうした人間の生命における弁証法的発展の構造において、「男性」と「女性」のどちらの存在がそうした弁証法的展開の基点となるテーゼとなる存在として位置づけられるべきであると考えられることになるのでしょうか?

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哲学的概念へと抽象化された認識論上の問題としての男女の概念の対称性

まず、

「男性」と「女性」という存在を、単に、人間という存在の内部において分類される互いに異なる性質を持った対立する二つの概念という抽象的な意味において捉えるとき、

両者の概念のうちのどちらの方をテーゼとしてもう一方をアンチテーゼとするべきなのか?という問題は、

単に個々の議論や概念を適切に識別するための分類上の記号を決めるような形式的な問題に過ぎないものとして捉えられることになり、

前回の議論のように、

「女性」の側をテーゼとして、それに対する「男性」の側をアンチテーゼとしても、

その反対に、

「男性」をテーゼとして、それに対する「女性」の方をアンチテーゼとしても、

哲学的な意味における弁証法的な議論の構造としてはまったく同等の議論が成立すると考えられることになります。

別な言い方をするならば、

結局、男女の内のどちらの存在をはじめにテーゼとして立てるのか?という問題は、そうした議論を提示する当人の視点のあり方によって異なる認識論上の問題であるとも考えられることになるので、

単純に言ってしまえば、

自らが属する人間という種族の生命の内に、上述したような弁証法的発展の構造を見いだそうとする当人が「男性」であったとするならば、

まず、自分自身が属する側にあたる「男性」をテーゼとして立てたうえで、それに対立する存在である「女性」をアンチテーゼとして規定することによって、両者の間のアウフヘーベンのあり方についての考察が進められていくことになりますし、

反対に、そうした議論を提示する当人が「女性」であったとするならば、

今度は、自分自身が属する側にあたる「女性」の方をテーゼとして立てたうえで、それに対立する存在である「男性」の方がアンチテーゼとして規定されることによって、両者の間のアウフヘーベンのあり方についての考察が進められていくことになると考えられることになります。

このように、

「男性」と「女性」というそれぞれの存在が、哲学的な概念として抽象化された議論においては、それぞれの概念が、

テーゼとアンチテーゼ、あるいは、正と反定立と反定立正と負陰と陽といった対立概念の内のいずれの概念の方に分類されることになるのかは、

そうした議論を立てる当人の視点のあり方に応じて移り変わっていく認識論的、あるいは、主観的な問題に過ぎないと捉えられることになり、

そのどちらの場合においても、同等の正当性をもった対称的な議論が成立することになると考えられることになるのです。

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生物学的な意味における基点となる存在としての男女の存在の位置づけ

しかし、その一方で、

「男性」と「女性」というそれぞれの存在のあり方を、上述したような哲学的な概念として抽象化された概念としてではなく、

人間あるいは人類という生物学的な種族における個体の性質や構造の具体的な区分のあり方として捉える場合には、こうした状況は少し異なってくることになり、

例えば、

「男性」と「女性」という両者の存在のジンテーゼとなる「子供」の誕生という局面へと至るためには、

そのために不可欠な生物学上の過程として、妊娠や出産といった「女性」の側においてのみ成立する過程が存在することから、

冒頭で述べたような「男性」と「女性」の間の対立からアウフヘーベンを通じてジンテーゼとしての「子供」が誕生へと至る人間の生命における弁証法的発展の構造においても、

より主導的で中心的な役割を担う存在は、男性ではなく女性であると捉えることもできると考えられることになります。

そもそも、

こうした人間や動物における生命の弁証法的展開のあり方の原型となっている議論としては、

ヘーゲルの『精神現象学』において示されている蕾と花と実の三者の間に成立する植物の生命の弁証法的な展開が挙げられることになりますが、

こうした植物の生命の弁証法的展開においても、例えば、

雌花と雄花が別々に形成される単性花に分類される植物の場合には、

蕾から花へと展開した雄花と雌花は、両者の間で受粉が行われたのちに、雄花の側ではなく、雌花の内においてのみ次の植物の生命の弁証法的な発展の段階である「実」の形成が進展していくことになるというように、

こうした蕾から花、花から実へと至る植物の生命における弁証法的な発展のあり方自体が、直接的には、雄花ではなく雌花の形態変化の過程のことを示していると考えられることになります。

つまり、

上述したような単性花の植物における雌花の内において生じる実の結実や、動物や人間における妊娠と出産を通じた子供の誕生といった生物学的な過程のあり方を念頭に置いた場合、

そうした植物や動物、そして、人間における生命の弁証法的な発展の基点となるテーゼとなる存在は、

「男性」の側ではなく「女性」の側に置く方が生物学的な意味においてはより自然な位置づけとなるとも考えられることになるのです。

・・・

次回記事:人類の永続的な発展のあり方を示す生命と国家における二重の弁証法、ヘーゲル哲学における生命の弁証法的展開の構造③

前回記事:女性・男性・子供の三者の間に成立する人間の生命の弁証法的発展の構造、ヘーゲル哲学における生命の弁証法的展開の構造②

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