神秘的な認識としてのデジャブ(既視感)とスピノザにおける「すべてを永遠の相のもとに見る」神の認識
前回書いたように、本来、自分にとって未知の経験であるはずの認識を既知の認識であると感じてしまうデジャブ(既視感)と呼ばれる現象は、
形而上学的な解釈という観点からは、プラトンのイデア論におけるイデアの想起に関わる神秘的な認識のあり方として捉えることができると考えられることになります。
そして、こうしたデジャブ(既視感)と呼ばれる認識のあり方は、さらに、スピノザの哲学思想において示されている永遠の相としての神の認識にもつながるような概念として捉えることもできると考えられることになります。
神の認識においてはすべての認識に既視感が伴うのか?
神をこの世界の創造者であり、全知全能にして永遠なる存在であると定義するとき、そうした全知全能なる存在である神の認識のあり方は、具体的にとのようなものであると考えられることになるのでしょうか?
神がこの世界の創造者であり、全知全能の存在でもある以上、現実の世界において生じるあらゆる物事は、
全知全能なる創造者である神が、永遠の昔に神自身の意志によって定められた永遠の計画に従って必然的に生じる神にとっては既知の出来事であると考えられることになります。
つまり、
神の認識においては、かつて自らが定めた永遠の計画の内に見ていたたものを、現在も見ていて、これから先も同じものを見ていくという全知にして既知なる認識のあり方が成立していて、
そういう意味においては、神におけるすべての認識は、常に既視感を伴う認識であると考えられることになるのです。
スピノザによる永遠の定義と「すべてを永遠の相のもとに見る」神の認識
神の概念、あるいは無限や永遠といった概念についての具体的な定義のあり方については、哲学においても様々な解釈の違いがみられるのですが、
スピノザによる永遠性の定義においては、
「永遠の内には「いつ」ということがなく、以前ということも以後ということもない」(スピノザ『エチカ』第一部、定理三十三の備考二)と述べられているように、
厳密には、神の永遠なる認識の内には、過去・現在・未来といった時間的な区分自体が存在しないとも考えられることになります。
そして、こうしたスピノザによる永遠性の定義に基づくと、
時間的の認識のあり方を超えて、あらゆる時間におけるすべての物事を一挙に把握する認識のあり方こそが神の永遠なる認識であると考えられることになるのですが、
いずれにせよ、そうしたすべての時間を超越した永遠なる認識においては、現実の世界において起きるすべての物事は、すでに知っていることが知っている通りに現れるという既視感を伴う認識であると考えられることになります。
そして、スピノザは、人間の精神自身も、そうした時間を超越した神の永遠なる認識へと到達することが可能であり、
人間自身における神の認識への到達は、以下のような形でもたらされると語られることになります。
「我々の精神はそれ自身と身体とを永遠の相のもとに認識する限り、必然的に神の認識を有し、自らが神の内に存在し、神によって思惟されることを知る」
(スピノザ『エチカ』第五部、定理三十)
つまり、
すべての時間におけるすべての出来事を俯瞰して一挙に捉えるというすべての時間を超越した認識のあり方が、スピノザが「すべてを永遠の相のもとに見る」という言葉によって言い表した神の永遠なる認識のあり方であり、
そうした神の永遠なる認識は、人間の認識においては、この世界の内にあるすべての存在の根源にある物質と精神という二つの存在の本質を哲学的な直観によって一挙に把握することによって実現されると考えられるということです。
そして、こうしたすべての存在を永遠の相のもとに見るという神の永遠なる認識においては、現実の世界におけるすべての認識は、時間を超越した永遠の相の内にすでに存在している既知の認識として捉えられることになるので、
そういう意味においては、それは形而上学的な観点から捉えられた神秘的な認識のあり方としてのデジャブ(既視感)の概念にも通じる認識のあり方であると考えられることになるのです。
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初回記事:デジャブとデジャヴュはどちらが正しい?英語とフランス語の発音の違いとフランス語の語源
前回記事:デジャブ(既視感)とプラトンのイデア論における想起説との関係とは?
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