命でしか償うことができないが命によっても償いきれない罪、ハンムラビ法典と旧約聖書における同害報復の規定の違いとは?③
前回書いたように、旧約聖書の「レビ記」におけるモーセの言葉では、異邦人に対しても自国民に対しても同様に適用される万人に平等な刑罰のあり方として、
「目には目を、歯には歯を」そして「命には命をもって償う」という同害報復的な刑罰の原理が語られていると考えられることになります。
そして、「レビ記」におけるこの部分の記述において気づくもう一つの興味深い点としては、
モーセは、人を殺すことは自らの命でしか償いえない罪であると同時に、自らの命によってすら償いきれない罪であるとも述べていると解釈できる点が挙げられることになります。
命でしか償うことができないが命によっても償いきれないという矛盾
前回引用した部分とも重なりますが、旧約聖書の「レビ記」における同害報復に関する記述の前段においては、
「人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる。家畜を打ち殺す者は、その償いをする。命には命をもって償う」(旧約聖書「レビ記」24章17節~18節)
と述べられています。
そして、同様の記述はこの章の後段においても見られることになるのですが、
そこで改めて述べられる記述では、以下のように細かい言い回しが少し変化した形で人殺しの罪に適切な罰のあり方が語り直されることになります。
「家畜を打ち殺す者は、それを償うことができるが、人を打ち殺す者は、死刑に処せられる。」(旧約聖書「レビ記」24章21節)
上記の引用部分の前者における記述では、人を殺した者は、その罪を自らの命によって償うために死刑に処せられると書かれているのですが、
もう一方の後者における記述では、
家畜を殺した者はそれを償うことができるが、それに対して、人を殺した者は死刑に処せられるという対比の形でそれぞれの罪に対する罰のあり方が述べられているということになります。
したがって、この後者の部分の記述では、
家畜を殺した者はその罪を償うことができるが、それに対して、人を殺した者はその罪を償うことができないので死刑に処せられるということが語られているとも解釈することができることになります。
このように、「レビ記」の上記の箇所におけるモーセの言葉に従うと、
家畜などの他人の財産を奪った場合、または、そうした財産に損害を与えてしまった場合には、罪を犯した人間は、奪った財産を元の持ち主に返すか、または、与えた経済的な損失に十分に見合った賠償をしたうえで、十分な反省と謝罪をするならば、その罪は十分に償うことができると考えられることになるのですが、
それに対して、
人を殺すという罪を犯した者は、単に、その償いとして自分自身の命を奪われるというだけではなく、その罪自体は、自らの命を差し出すことによっても償いきることができないとさえ語られていると解釈できることになるのです。
肉体と魂において二度裁かれるべき罪
このように、
人を殺した者の罪が、自らの命によってしか償えないと同時に、その罪自体は自らの命によってさえも償いきれないというのは、
一見すると、互いに矛盾する主張であるとも考えられることになります。
しかし、
現に、無差別殺人などの被害者となってしまった人の遺族が、たとえ裁判によって犯人が死刑になったとしてもそれで自分の家族の命が戻ってくるわけではない以上、そんなことは何の償いにもならないということを認めながらも、当然のことながら犯人が最も重い罰である死刑に処されることを望む気持ちを持つことがあるように、
この世界の内で何をしても償いきれないということは、だからといって何の償いをしても意味がないということを意味するわけではないと考えられることになります。
より踏み込んだ解釈をするならば、
命でしか償うことができないが命によっても償いきれないというこの部分における旧約聖書の記述は、
人殺しのような現世の仕組みの内で償いきることができない重い罪を犯した人間は、二度裁かれるということを意味するとも考えられることになります。
つまり、
その罪が現世で受ける罰によって償いきれるものではない以上、
それは、現世における肉体に対する死の裁きと、人間が死んだ後に天上の裁きの座にある神から直接受けることになるとされている魂に対する裁きというそれぞれの局面において二重の意味において裁かれるべき罪であると考えられることになるのです。
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以上のように、
上記の旧約聖書の「レビ記」の記述におけるモーセの言葉においては、
人を殺した者は、この世界の内では最も重い刑罰にあたる死刑に処されるべきであるが、そうした現世における刑罰によってその罪自体が許されるわけではなく、
現世において自らの肉体を通して償いきることができなかった残された罪の部分は、死後に神から下されることになる魂に対する裁きによって償われることになるというように、
人を殺すという人間にとって最も重い罪のあり方の本質が浮き彫りにされる形で明らかにされていると考えられることになるのです。
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そして、
こうした旧約聖書の「レビ記」における上記のような記述の前後では、また次回改めて考えていくように、
人間が人間に対して犯す罪と罰のあり方だけではなく、人間が神に対して犯す罪と罰のあり方についても述べられていくことになります。
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次回記事:旧約聖書における人への罪と神への罪に対する刑罰の違いとは?ハンムラビ法典と旧約聖書における同害報復の規定の違い④
前回記事:旧約聖書における同害報復と万人に平等な刑罰の原理、ハンムラビ法典と旧約聖書における同害報復の規定の違いとは?②
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