自己複製と恒常性の原理のどちらが生命の根本原理なのか?①引き算によって浮き彫りにされる生命の本質的な定義、生命とは何か?⑨
前回書いたように、
「自己と外界との境界」「エネルギーと物質の代謝」「自己複製」「恒常性」という四つの生命の定義のうち、
はじめの「自己と外界との境界」と「エネルギーと物質の代謝」という二つの要素は、無生物や人工物にも適用しうる要素であり、
生物を生命として成り立たせている核心的要素、すなわち、生命の根本原理となる要素は、「自己複製」と「恒常性」のいずれかの要素であると考えられることになります。
そこで、今回からの一連の議論では、
「自己複製」と「恒常性」という残された二つの要素のうち、どちらがより根本的な生命の原理であると言えるのか?という問題について考えていきたいと思います。
引き算によって浮き彫りにされる生命の本質的な定義
それでは、まず、
いったいどのような方法によって、「自己複製」と「恒常性」という両者の原理のうち、どちらがより根本的な生命の原理であるのか?という問題に決着をつけることができるかということですが、
それは、一言で言うと、
生物とされる個体から二つの原理のうちのいずれか一方を取り去ったときに、それでもその個体は生命を持った存在として成立しうるのか?という問題を順々に考えていくことによって決着をつけることができると考えられることになります。
例えば、
ある生物から「自己複製」の原理を抜き去ってしまってもその個体が生命体として成立しうるとするならば、残された「恒常性」の原理の方がより本質的で重要な生命の原理ということになりますし、
その反対に、「恒常性」の原理の方を抜き去っても生命体として成立しうるとするならば、残されたもう一方の生命の原理である「自己複製」の原理の方がより根本的な生命の原理ということになります。
そして、
もしも、「自己複製」の原理と「恒常性」の原理のいずれを取り去った場合でも、その個体はもはや生命体として存立しえないとするならば、
「自己複製」と「恒常性」の原理は、両者とも同等に生命を成り立たせることに不可欠な原理であると考えられることになります。
このように、
ある生命体から上記の二つの原理の内、いずれか一方の要素を取り去ってしまった場合に、それでもその個体は生命を持った個体、すなわち、生きている存在と言えるのか?という引き算の問題を順々に考えていくことによって、
より本質的な生命の定義が自然と浮き彫りになっていくと考えられることになるのです。
個体全体のマクロレベルと個々の細胞のミクロレベルにおいて働く生命の原理
それでは、
具体的にどのようなケースについて考えていくことによって本質的な生命の原理をあぶり出していくことが可能となるのか?ということですが、
それについては、「自己複製」や「恒常性」という二つの生命の原理が、個々の生物のどのようなレベルにおいて働く原理であるのか?という問題の捉え方に応じて、検討するべき具体的なケースのあり方も異なってくると考えられることになります。
「自己複製」や「恒常性」といった生物の機能は、マクロレベルでは生物の個体全体において、ミクロレベルでは生物を構成している個々の細胞において働く機能であると考えられることになりますが、
そうすると、
「自己複製」と「恒常性」というそれぞれの機能のいずれか一方が失われてしまった場合でも、その個体が生命を持った存在として成立しうるのか否かを適切に判断するためには、
生物の個体全体というマクロレベルと、個々の細胞というミクロレベルという二つのレベルのそれぞれについて、どちらか一方の機能が喪失されたケースを順々に検討していくことが必要となります。
つまり、
はじめに、生物の個体全体というマクロレベルにおいて、「自己複製」と「恒常性」のいずれか一方の機能が失われてしまったケースでも、その個体が生命を持った存在として成立しうるのかを吟味したうえで、
次に、個々の細胞というミクロレベルに至るまで、両者のうちの一方の機能が徹底的に破壊されてしまったケースでも、その個体がいまだ生命を持った存在として成立することがあり得るのか?ということを吟味することによって、
「自己複製」と「恒常性」という両者の原理のうち、どちらがより根源的な生命の原理であるのか?あるいは、両者の原理は二つとも同等に不可欠な生命の原理であるのか?という問題への答えが明らかになると考えられることになるのです。
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次回記事:自己複製と恒常性の原理のどちらが生命の根本原理なのか?②生物の個体レベルにおける恒常性と自己複製の機能の喪失、生命とは何か?⑩
このシリーズの前回記事:ウイルスが生物であるか否か?という問いから生命の根本原理への問いの架け橋、生命とは何か?⑧
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