I love youはラテン語では何て言うの?文法的構造とデカルトの『方法序説』と『哲学原理』における主格のegoの表記の違い
前回は、英語の”I love you“にあたるドイツ語・フランス語・イタリア語・ラテン語の表現の内、二番目のフランス語におけるJe t’aime.(ジュ・テーム)という表現について取り上げました。
そこで、三回目である今回は、
日本語の「私はあなたを愛しています」そして英語の“I love you“にあたるラテン語の表現である
Te amo.(テー・アモー)
という表現について、この文に含まれる個々の単語の意味と、文全体の文法的構造について詳しく考えていきたいと思います。
ラテン語のTe amo.(テー・アモー)の文構造
ラテン語のTe amo.(テー・アモー)という文を構成するそれぞれの単語については、
まず、文頭のTe(テー)は、二人称単数の人称代名詞tu(トゥー)の対格(直接目的語)の形であり、「君を」を意味することになります。
そして、
後半のamo(アモー)は、「愛する」を意味する動詞amare(アマーレ)の一人称単数の現在形であり、この一単語で「私は愛する」を意味することになります。
したがって、
全体としては、Te=「君を」、amo=「私は愛する」となり、
英語表現との対比では、上記のラテン語の文は、
Te=you 、amo=I loveという形で、英語の”I love you“の表現に対応していると捉えられることになるのです。
ラテン語における主格のegoの省略と強調の問題
それでは、なぜ、ラテン語ではamoという一つの動詞だけで英語におけるIとloveという主語と動詞の意味を同時に兼ね備えた表現が可能となるのか?というと、
詳しくは、アモーレの語源とは何か?で書いたように、それは、ラテン語においては、動詞の活用語尾の内に主語を示す表現がすでに組み入れられているので、改めて主語を書き加える必要がないということが理由として挙げられることになります。
しかし、
すでに動詞の活用語尾の中に主語が組み込まれているからといって、改めて主語を明示するために人称代名詞の主格(主語)を書き加えることも文法的に誤りというわけではないので、
例えば、周りのみんなは君のことが嫌いみたいだけど、私だけは君のことが大好きだよ、と言いたい場合のように、
改めて主語を強調しなければならない特殊な状況や、格式張った表現においては、あえて人称代名詞の主格を文頭に挿入することも可能と考えられることになります。
そして、その場合は、
上記のTe amo.(テー・アモー)というラテン語の文の文頭に、「私は」を意味する一人称単数の人称代名詞の主格ego(エゴー)が書き加えられることになり、
Ego te amo. (エゴー・テー・ アモー)
と表記されることになるのです。
『方法序説』のcogito ergo sumと『哲学原理』のego cogito, ergo sumにおける主格のegoの表記の違い
余談ですが、主格のegoを省略する表記と、主語を強調するためにegoを明記する表記の違いの例としては、
例えば、デカルトの『方法序説』と『哲学原理』におけるcogito命題(コギト命題、自我と思惟の存在のあり方にについて論ずる命題)の表記のあり方の違いなども挙げられることになります。
17世紀フランスの哲学者であるデカルトの哲学思想を端的に表す言葉としては、
彼のフランス語による著作である『方法序説』における記述のラテン語訳である
“cogito ergo sum“(コギト・エルゴ・スム)すなわち「我思うゆえに我在り」という言葉が有名ですが、
これとほぼ同じ内容の命題を意味する表現として、デカルト自身のラテン語による著作である『哲学原理』においては、哲学において最も明白で確実な第一原理は、
“ego cogito, ergo sum“(エゴー・コギトー・エゴー・スム)という認識であると語り直されることになります。
ここでは、cogito命題の哲学的な問題は抜きにして、egoという主格の省略と強調というラテン語表記上の問題についてだけ取り上げると、
前者のcogito ergo sum.という文は、cogito=私は思う、ergo=ゆえに、sum=私は存在するという文構造になっているのに対して、
後者のego cogito, ergo sum.という文は、ego=私は、cogito=思う、ego=私は、sum=存在するという文構造になっているということになります。
つまり、
『方法序説』の方のcogito命題の表記である”cogito ergo sum“では、cogitoという動詞の活用語尾に含まれる形で一人称の主格のegoの表記が省略されるというラテン語の通常の表記に従っているのに対して、
『哲学原理』の方の表記である”ego cogito, ergo sum“では、cogitoという動詞の前に改めて一人称の主格であるegoが書き加えられることによって、より主語であるego=私、すなわち、自我の存在が強調された表現になっていると考えられることになるのです。
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そして、
こうした通常の表記では主語の明記が省略されるという現象は、今回取り上げたラテン語を源流に持つ言語である現代のイタリア語やスペイン語、ポルトガル語などにも同様に見られることになるのですが、
次回は、そうした他の言語におけるI love youの表現の文法的構造についても改めて明らかにしたうえで、世界の言語におけるI love youの表現について、簡単な文法的説明を加えたうえでまとめていきたいと思います。
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次回記事:
前回記事:I love youはフランス語では何て言うの?文法的構造とリエゾンとエリジオンの違い
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