自らの不正を自らの行いによって認める者、「悪法もまた法なり」とソクラテスは言ったのか?③
前回書いたように、
ソクラテスは、擬人化された国法と国家との対話において、裁判によって下された判決に従わずに、国法に逆らって脱獄と逃亡を図るような人物は、国家から受けた恩恵を仇で返し、約束を違えて裏切りへと走る三重の不正を犯す者であると説かれることになります。
それでは、
ソクラテスは、一般的な処世術においても、長い物には巻かれよなどと言われるように、自分よりも圧倒的に大きな権力を持った存在である国家や国法の前には、人間は自分の意志を持たずにひたすらひれ伏すべきであるということを言おうとしているのか?というと、
この先の議論の流れをつぶさに見ていくと、どうもそのようなわけではないということが明らかになっていくことになります。
自らの不正を自らの行いによって認める者
国法と国家は、彼らとの暗黙の合意を破ってまでアテナイから逃走しようとするソクラテスに対して、さらに以下のように語りかけることになります。
ソクラテスよ、お前がもしアテナイから一番近い都市の一つへ、例えばテーバイやメガラのような善き国法のもとにある都市へと逃れたとするならば、
お前は、そこの市民たちから彼らを守る国法の敵であると思われるだろう。
そして、その国のためを思う者は皆、お前を国法と国家の破壊者とみなして、警戒と疑いの目でお前のことを見るだろう。
すると、お前は、アテナイの裁判官たちの主張に十分な理由を与えることになり、その結果、彼らはお前に対して正しい判決を下したのだと思われるに至るであろう。
なぜならば、国法と国家に害をなしこれを滅ぼす者は、同時にまた、青年や思慮の浅い者たちをたぶらかしこれを滅ぼす者でもあると断じられることは、極めて確かなことだからである。
(プラトン著、『クリトン』、第15節)
そもそも、
ソクラテスが牢獄につながれ、死刑に処されることになったいきさつは、
一部の悪意ある扇動者たちによって、ソクラテスが青年たちを堕落させ国家が認める神々を認めず新たなダイモーン(神霊)を祀っているという不敬神の罪によって告発され、
彼らに焚きつけられたアテナイの市民たちの手によっていわれのない不当な死刑判決を受けるに至ったことにあるわけですが、
ここでは、
もし、そのようなソクラテスがひとたび国法を破って脱獄するという不正を犯せば、その不正な行為によって、先だって自分に下された不当なはずの判決に対して、かえってその正当性を与えることになってしまうということが主張されていると考えられることになります。
例えば、現代においても、
牢獄の中から自らの身の潔白を主張し続ける人に対しては、それが真実であるとするならば、いずれは耳を傾ける人が現れてくれる可能性があるとは考えられますが、
その一方で、
仮に死刑囚が脱獄に成功して塀の外から自らの無罪を主張したとしても、そのような脱獄囚が主張する身の潔白の主張に聞き耳を持つ人はいないと考えられるように、
ソクラテスが国法を破って脱獄し、国外へと逃亡するのを見たアテナイの人々は、彼は、法律を破って自らの責任から逃げ出す不道徳で恥知らずな人物なのだから、先だって下された彼に対する死刑判決も、そのような不道徳な悪人に相応しい妥当な判決だったのだろうと推察するようになり、
ソクラテスは、先の不当な裁判によって疑いをかけられた自らの不正を、脱獄と国家からの逃亡という自らの不正な行いによって事実上認めることになってしまうということになるのです。
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ましてや、
ソクラテスは、人間はどうすれば善く生きることができるのか?という徳と正義、善と道徳を探究することに自らの生涯を捧げることを誓ったはずの哲学者であるのに、
その善と正義を説いているはずの彼自身が、人間の社会における最も確固たる道徳の基準となっている国法を破り、これを公然と踏みにじる者であるとするならば、
そのような不正を行う人物が説く善と正義についての教説に耳を傾ける者が果たしてこの世界にいるのだろうか?ということにまで問題が広がっていくことになります。
そして、次に、
国家と国法とソクラテスの間の魂の対話は、
そのような不正を犯してまで生きながらえる人生は、自分にとって生きるに値する価値があるものなのか?という、より自分自身の心の内面へと向けられた問いへと向かっていくことになるのです。
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前回記事:国法と国家に逆らう三重の不正を犯す者、「悪法もまた法なり」とソクラテスは言ったのか?②
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