無知の知と不知の知の違いとは?ソクラテスにおける否定的な知のあり方の四つの解釈③
前回書いたように、
「知らないことを自覚する知」というソクラテスにおける否定的な知のあり方のことを示す日本語の表記の候補としては、
「無知の知」と「不知の知」という二つの知のあり方が考えられることになります。
それでは、
この「無知の知」と「不知の知」というそれぞれの言葉が示す知のあり方には、具体的にどのような違いがあると考えられることになるのでしょうか?
全般的な知の欠如のことを示す「無知の知」
まず、
善美なるものの普遍的真理については知らないということを自覚するというソクラテスの知のあり方を示す表現として一般的に使われている「無知の知」という表現について考えてみたいと思います。
そうすると、
この「無知の知」の「無知」という言葉については、
例えば、
学問がなく、物事の道理を知らないことを意味する「無知蒙昧」や、学問や知識がなく、文字も読めないことを示す「無知文盲(もんもう)」といった表現にも表れているように、
「無知」という言葉は、一義的には、学問や教養についての一般的な知識が無いという全般的な知の欠如のことを示していると考えられることになります。
しかし、
「神と被造物の間に位置する人間の知のあり方、ソクラテスの無知の知とは何か?」で詳しく考察したように、
ソクラテスにおける「知らないことを自覚する知」とは、知性を持たない動物やまだ何も知らない赤子のように、まったく何も知らないということを意味しているわけではなく、
人間の知が完全な知性を有する神のような知へは到達し得ないことを自覚するという意味で用いられていると考えられることになります。
したがって、そういう意味においては、
ソクラテスにおける「知らないことを自覚する知」のことを示す表現としては、全般的な知の欠如のことを表してしまう「無知の知」という表現ではなく、
単にある事柄について知らないということを意味する「不知の知」という表現の方がより適切な表記であると考えられることになるのです。
知の探究の否定的な側面が強調される「不知の知」
それでは、
「不知の知」という表記がソクラテスにおける知らないことを自覚する知のあり方を示すのに最も適した表現であり、「無知の知」という表記はまったく的外れの不適切な表記なのか?というと、必ずしもそうはっきりと言い切れるわけではなく、
「不知の知」という表記についても、一定の問題点があると考えられることになります。
「不知」における「不」という表現については、
例えば、「不治の病」という表現が、決して治ることがない、絶対に治療不可能といったマイナスイメージが強い表現として用いられるように、
「不知の知」という表現についても、その知については決して知ることができないという「無知の知」よりも強い否定の意味が加わってしまうと解釈することができることになります。
しかし、
ソクラテスの知の探究においては、完全なる神の知へと到達することは不可能であるという知の探究の否定的な側面だけが強調されているわけではなく、
むしろ、
そうした到達不可能な神の知へと向かって人間の知が限りなく上昇していくことができるという肯定的な面の方へと探究の目が向けられているので、
そういう意味では、
単に、知が無いというニュートラル(中立的)な意味での知の有無のことを示している「無知の知」という表現の方がより適切な表記であるとも考えられることになるのです。
「無知の知」と「不知の知」の中間に位置する知のあり方
以上のように、
善美なるものの普遍的真理について知らないことを自覚するというソクラテスにおける否定的な知のあり方は、
それが、全般的な知の欠如のことを意味するわけではなく、神の知における普遍的真理という特定の事柄についての知の欠如のことを意味するという点においては、「不知の知」と表現する方が相応しいと考えられるのですが、
その反面、
知の探究の否定的な側面のみを強調せずに、中立的な立場から、神の知へと向かって人間の知が上昇していくことができるという哲学的な知の探究の肯定的な側面を示す意味も含み持たせるためには、「無知の知」と表現する方が適切であると考えられることになります。
そして、そういう意味においては、
知らないことを自覚するというソクラテスの知のあり方は、
「無知の知」と「不知の知」の中間に位置する知のあり方であると捉えられることになるのです。
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初回記事:「無知の知」の由来と自分が知らないことを自覚する知のあり方、ソクラテスにおける否定的な知のあり方の四つの解釈①
前回記事:非知の知と未知の知か?それとも無知の知と不知の知か?ソクラテスにおける否定的な知のあり方の四つの解釈②
関連記事:ソクラテスの無知の知とは何か?①デルポイの神託の真意を確かめる知の探究への道