「私は今、嘘をついている」と「この文は偽である」の同値性とパラドックスの定義、嘘つきのパラドックスとは何か?②
前回書いたように、
嘘つきのパラドックスは、ソクラテスの思想を源流に持つ哲学の一派である
メガラ学派における論理や論証法についての哲学的探究のなかで形づくられていったパラドックスであると考えられることになるのですが、
今回は、こうした嘘つきのパラドックスにおけるパラドックスの構造と、パラドックスが論証されていく具体的なあり方について詳しく考察するための前提として、
嘘つきのパラドックスにおいて、「パラドックス」という言葉が持つ意味と、
嘘つきのパラドックスとして語られている様々な表現、様々な命題同士の論理的な関係、その同値性について一通り考えておきたいと思います。
嘘つきのパラドックスにおける「パラドックス」の定義
パラドックス(paradox、逆説)という概念は、
ある程度多義性を持つ概念なので、
嘘つきのパラドックスとは何か?という問題をより正確に捉えるためには、
その前提として、パラドックスとは何か?という問題についてある程度詳しく考えておく必要があると考えられます。
そして、その中でも、嘘つきのパラドックスの場合におけるパラドックスの定義についてだけ取り出して考えると、それは、
ある命題から正しい推論によって導き出された結論が矛盾をはらむ命題となってしまうことを指す概念であり、
つまり、
同一の命題について、それを真であると仮定しても偽であると仮定しても、
矛盾する結論が帰結してしまうということを意味する概念ということになります。
「私は今、嘘をついている」と「この発言文は偽である」の同値性
次に、嘘つきのパラドックスとして語られている命題同士の論理的関係の問題についてですが、
嘘つきのパラドックスにおいて
パラドックスが必然的に生じるとされる命題には、
その表現の仕方に様々なバリエーション(変種、種類)があり、
「私は今、嘘をついている」
「私が今言っていることは嘘である」
「この文章は嘘である」
「この文は偽である」
といった様々な表現、様々な命題が嘘つきのパラドックスとして語られることになるのですが、
上記の嘘つきのパラドックスを表現するとされるすべての文、すべての命題は、
論理学的には同値(等価、同じこと)であると考えられることになります。
そのことを明示するための一例として、
上記の四つの文の内の一番上と一番下に位置する命題である
「私は今、嘘をついている」という発言文と
「この文は偽である」という文の二つの文について、
両者が、前者の文から後者の文が必然的に導かれ、その反対に、後者からも前者が必然的に導かれるという同値の関係にあることを以下のような議論を通じて示してみたいと思います。
・・・
はじめに、
「嘘」とは、「事実とは違う言葉」すなわち、
「偽りの発言」のことを意味する概念ということになるので、
「私は今、嘘をついている」という発言文は、
「私は今、偽りの発言をしている」という発言文に置き換えても同値ということになります。
次に、
「偽りの発言をしている」という文を、主語を「発言文」にした形で表すと
「この発言文は偽である」という文になるので、
「私は今、偽りの発言をしている」という発言文は、
「私の今の、この発言文は偽である」という文に置き換えても同値ということになります。
そして、
上記の文において、論理学的には、それが発言文であるのか、記述文であるのかということは文章の真実性や論理性においてまったく関係がないことなので、
「発言文」は単なる「文」という表記に置き換えることが可能であり、
また、上記の文は、特にことわりがない限り、発言者または作者自身の現在の言葉であることは明らかなので、上記の文における「私の」や「今の」といった表現は省略可能ということになります。
したがって、
「私の今の、この発言文は偽である」という文は、
「この文は偽である」という文に置き換えても同値ということになり、
はじめの「私は今、嘘をついている」という発言文から
最後の「この文は偽である」という文が必然的に導出されることになるのです。
つまり、
「私は今、嘘をついている」という発言文は、
「私は今、偽りの発言をしている」という文と同値であり、この文は、
「私の今の発言文は偽である」という文と同値、さらには、
「この文は偽である」という文とも同値であると考えられるということです。
そして、
上記の文の導出において置き換えられていった各文同士の関係は、
すべて同値の関係で結ばれているので、
反対に、「この文は偽である」という文から「私は今、嘘をついている」という発言文を導出することも、上述の議論を逆からそっくりそのままたどっていくことによって、
同様に可能と考えられることになります。
このように、
「私は今、嘘をついている」という発言文と
「この文は偽である」という文の二つの文の関係が互いに同値であり、
両者は、論理学的にはまったく同じ意味を持った等価の文であるということが証明されることになるのです。
・・・
以上のような嘘つきのパラドックスにおけるパラドックスの定義と
パラドックスを形成する各命題同士の同値性、等価性の議論を踏まえると、
嘘つきのパラドックスにおいて必然的にパラドックスが帰結することを論証するためには、「この文は偽である」という命題がパラドックスへと陥ることを証明すればよく、
そのためには、
「この文は偽である」という一つの命題、一つの文について、
この文を真であると仮定しても偽であると仮定しても、どちらの場合においても同等に矛盾する結論が帰結してしまうこと論証すればよいと考えられることになるのです。
・・・
このシリーズの前回記事:嘘つきのパラドックスの由来とは?エウブリデスとメガラ学派、嘘つきのパラドックスとは何か?①
このシリーズの次回記事:嘘つきのパラドックスの構造と具体的な証明の手順、嘘つきのパラドックスとは何か?③
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