アルファベットとアブジャド(フェニキア文字)の表記システムの違い、音素文字の細分化③
前々回と前回の二回にわたる
アルファベットの語源とアルファベットの起源
についての考察の中で、
広義におけるアルファベット、すなわち、
音素文字(phonemic script)には、
すべての母音と子音が文字として明示される
狭義におけるアルファベットの他に、
アブジャドとアブギダと呼ばれる
二つの異なる文字表記のシステムが
存在すると書きましたが、
今回からは、
こうしたアブジャドとアブギダと呼ばれる音素文字において、
どのような仕組みによって言語の音声内容が表現されるのか?
ということについて、詳しく考えてみたいと思います。
・・・
狭義におけるアルファベットとアブジャドの違い
まずは、アブジャドという文字体系の定義についてですが、
アブジャド(abjad)とは、
子音文字(consonantal alphabet)や単子音文字(consonantary)とも呼ばれる
音素文字に属する文字体系の分類の一つであり、
狭義におけるアルファベット(alphabet)が
子音を表す文字と母音を表す文字の両方を持つのに対して、
アブジャド(abjad)は、子音を表す文字だけしか持ちません。
つまり、
ギリシア文字やラテン文字(ローマ字)などの
狭義におけるアルファベットにおいて、
母音と子音の表記によって表現されている文や単語は、
アブジャドであるフェニキア文字などにおいては、
母音を抜いた子音文字のみの表記によって書かれることになる
ということです。
アブジャドに属する文字体系としては、
古代地中海の海上貿易を担ったフェニキア人のフェニキア文字や、
シリアを中心とする西アジアの隊商貿易で活躍したアラム人のアラム文字、
中央アジアの遊牧民族ソグド人のソグド文字、さらに、
イスラム教の聖典コーランに書かれているアラビア文字や、
キリスト教の旧約聖書を記すのに使われたヘブライ文字
などが挙げられます。
アルファベットとアブジャドの表記システムの比較
アブジャドの代表的な文字であるフェニキア文字の
具体的な形状については、
例えば、
“Phoenician alphabet” (wikimedia commons)
などでフェニキア文字の文字表を見ることができますが、
ここでは、文字体系としての表記システムの違いに注目するために、
文字の形状はそのままローマ字を代用する形で、
アルファベットとアブジャドという
それぞれの文字体系における文字表記の仕組みを比較してみたいと思います。
例えば、
“phonemic script”(音素文字)という同じ単語内容を
狭義におけるアルファベットとアブジャドという
二つの別々の表記システムを使って書き表すとすると、
まず、
母音と子音の両方を書き記していく
狭義におけるアルファベットの表記システムにしたがうと、
上記の単語内容は、文字としてもそのまま
“phonemic script“と書かれることになります。
これに対して、
子音のみを文字として書き記す
アブジャドの表記システムにしたがって
上記の単語内容を書き直すと、それは、
“phnmc scrpt“というように書かれることになります。
アルファベットの表記システムの場合、
“phonemic script“という文字列自体が示す発音は
「フォネミック・スクリプトゥ」などとなり、
これは英語における「フォニミック・スクリプトゥ」という正規の発音とも
ほぼ一致することになります。
一方、
アブジャドの表記システムの場合、
“phnmc scrpt“という文字列自体が示す発音は
「フォンムク・スクルプトゥ」となってしまい、
母音文字の表記がない分正規の発音との間に
ある程度の乖離が生じてしまうことになるのですが、
アブジャドに属する文字の読解においては、そうした母音の欠落部分は、
前後の文脈や語のつながりなどから類推することによって
元の言語の発音へとたどり着くことになるのです。
言語タイプごとの文字体系との相性と適正の異なり
以上のように、
フェニキア文字を筆頭とする
ギリシア文字以前の古代のアルファベットの文字体系においては、
基本的に子音だけが文字として表記されて母音は表記されず、
母音の部分の発音は、前後の文脈などから判断される形で
補われていたと考えられます。
そして、
こうした母音の表記を省いた
アブジャドの文字表記のシステムでも
ある程度その文字列が示す意味が正しく伝わることの一因には、
フェニキア語などのヨーロッパ系の言語が
比較的子音系の発音が多い言語であることが
挙げられると考えられるのですが、
これに対して、
子音と母音がセットになった音節文字である
平仮名・片仮名によって表記されることが多く、
言語の発音の半分以上が母音によって占められる日本語の場合は、
その文字表記の条件が大きく異なってくることになります。
例えば、
日本語における「音素文字」という単語内容を
ローマ字を用いたアルファベット表記で示すと
“onsomoji“(オンソモジ)となりますが、
これを無理やりアブジャドの表記システムを使って書き表そうとすると
“nsmj“(ンスムジュ)となっていしまい、
このたった4つの子音文字から
元の8つのローマ字の発音を正しく類推するには、
読唇術以上の困難を要することになってしまうと考えられます。
このように、
母音の使用率が高い日本語などの言語は、
子音表記のみの文字体系であるアブジャドとの相性が非常に悪く、
むしろ、子音と母音がセットになった音節文字の使用に適していると考えられ、
反対に、
子音の使用率が高いフェニキア語のようなヨーロッパ系の言語においては、
アルファベットや、さらにはアブジャドによる文字表記も可能と考えられる
ということになるのです。
つまり、
言語のタイプによって、
アルファベットやアブジャド、音節文字や表語文字といった
それぞれの文字体系との相性が異なってくるということであり、
それぞれの民族において、
民族が使用する言語への十分な適性を備えた文字体系が
歴史の流れの中で選択されていったと考えられるのです。
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このシリーズの前回記事:世界最古のアルファベットとフェニキア文字からギリシア文字、ローマ字までの発展の歴史、音素文字の細分化②
このシリーズの次回記事:アブギダ(梵字)の文字表記システムと随伴母音と付加記号の仕組み、音素文字の細分化④
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