表音的な表意文字と表意的な表音文字とは?仮借と借字とアルファとオメガ
前回書いたように、
一般的な分類では、文字は、
一つ一つの文字が概念やイメージを表す
表意文字(ideogram、イデオグラム)と、
一つ一つの文字が意味をもたず、音声のみを表す
表音文字(phonogram、フォノグラム)の
二つに大きく分けられることになります。
しかし、
これらの文字の区分は、必ずしも絶対的なものではなく、
通常は表意文字とされる文字にも
表音的な用法があったり、
反対に、表音文字とされる文字でも
表意的な使われ方がされることもあります。
表音的な表意文字、仮借における「豆」と「我」
まず、
表意文字の表音的な用法について考えてみると、
表意文字の代表格というと、現代の日本でも使われている
漢字ということになりますが、
漢字には、
その言葉を直接意味する漢字がない場合、
同音の漢字を意味に関係なく転用して使う
仮借(かしゃ)と呼ばれる用法があります。
例えば、
「豆」(トウ)という漢字は、
元々は、儀式などで食物などを供える時に用いる
お椀のような器に、その器を支える脚がくっついた高坏の形を
かたどって作られた漢字ですが、
後に、仮借による漢字の転用によって、
穀物の「まめ」の意味でも用いられるようになりました。
また、
「我」(ガ)という漢字も、
元々は、両刃の剣に柄をつけた敵を刺し貫くための武器である矛(ほこ)の
刃先のギザギザした形をかたどってつくられた漢字ですが、
後に、仮借によって、この漢字を借りて、
自分、私のことを指す「われ」の意味でも用いられるようになりました。
「豆」の仮借の場合は、まだ、
食物を盛るための器を意味する「豆」の字と
器に盛られる食物である穀物の「まめ」との間に、
ある程度の意味上の相関性があるとも考えられるわけですが、
「我」の仮借の場合は、
敵を刺し貫く武器を意味する「我」の字と
自分、私のことを意味する「われ」との間に
意味上の関係を見いだすことはまったくできないので、
意味とは無関係に、同音の漢字の音だけを借りて転用する漢字の使い方である
仮借の用法の典型例と言えることになります。
亜米利加と基利斯督と阿弖流為と夜露死苦
そして、こうした仮借の用法は、
より広い意味では、当て字や借字
といった漢字の使い方にもつながっていくことになります。
仮借の場合の漢字の借用は、
古くから慣用的に使われている用法のみに限られ、
前述の「豆」や「我」のように、
音を借りるのに使われる漢字は基本的に一字ということになるのですが、
単なる当て字や借字の場合では、
より広く、より自由に、
字義を無視して音のみを借りて転用する
漢字の使用法が拡張していくことになります。
例えば、
外国の国名では、借字を使って
アメリカ合衆国のことは「亜米利加」、
ドイツは「独逸」、
パラグアイは「巴羅貝」、
などと表記されることがありますが、
さらに、
日本史の史料では、平安時代の東北地方の覇者であった
蝦夷の長アテルイは、
「阿弖流為」などと表記されますし、
戦国時代から江戸時代にかけての
イエズス会を中心とするキリスト教の布教では、
イエス・キリストの名には、借字を使って
「基利斯督」という漢字があてられることになりました。
また、
一昔前の暴走族がよく掲げていた
「夜露死苦」といった表記も、広い意味では、
こうした当て字や借字の用法となると考えられます。
以上のように、
これらの「我」や「基利斯督」といった
仮借や借字の用法では、
本来、表意文字であるはずの漢字が
表音文字として用いられているということになるのです。
表意的な表音文字、ギリシア文字のアルファとオメガ
一方、それとは反対に、
本来、表音文字であるはずの文字が
実質的に表意文字として使われていると捉えることができる事例も
考えることができます。
例えば、
旧約聖書のヨハネの黙示録の第一章は、
次のような言葉で結ばれています。
今いまし、かつていまし、やがて来られる方、全能の主がこう言われる。
「わたしはアルファでありオメガである。」
(ヨハネの黙示録第一章八節)
この「わたしはアルファでありオメガである。」という一節は、
ギリシア語原文では、
“Εγω ειμι το α και το ω“(エゴー・エイミー・トー・アルファ・カイ・トー・オメガ)と表記されますが、
この一文は、
α(アルファ)がギリシア語のアルファベットの最初の文字であり、
ω(オメガ)が最後の文字であることから、
この言葉の語り手である神は、
最初の者であり、最後の者でもある、すなわち、
神は、世界の始まりから終わりまで常に在り続ける
永遠なる存在であるということを宣言する内容となっています。
つまり、
この一節では、αとωという表音文字に分類される
ギリシア文字のアルファベットがそのまま示されているわけですが、
そのαとωという表音文字そのものが
音声だけではなく、
最初の者と終わりの者という
明確な概念を示す文字として使われているということであり、
したがって、ここでは、
本来、表音文字であるはずのギリシア文字が
表意文字として用いられているということになるのです。
・・・
以上のように、
文字の種類は、大枠としては、
概念と音声のどちらに重点を置いているかで
表意文字(ideogram、イデオグラム)か表音文字(phonogram、フォノグラム)の
いずれかに分類されることになるのですが、
その区分は厳密でも明確なものでもなく、
表意文字とされる漢字も、仮借や借字の用法では、
「我」や「基利斯督」というように、表音的に用いられることもあり、
反対に、
表音文字とされるギリシア文字も、
「αとω」のように、表意的に用いられることもあります。
そして、このように、
文字の表意性と表音性の度合いは、それぞれの個々の文字の特性や、
その文字が使われる状況や用法、文字の使用者の意図などに応じて、
大きく変化していくことになるのであり、
すべての文字は、
イデア(idea、概念)とフォニー(phony、音声)の狭間を
常にたゆたい続ける存在であると言えるのです。
・・・
このシリーズの前回記事:表意文字(イデオグラム)と表音文字(フォノグラム)の語源とは?イデアとフォニーの二つの側面
このシリーズの次回記事:表意文字と表語文字の違いとは?絵文字(ピクトグラム)と象形文字(ヒエログリフ)の差異
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