デモステネスの三度にわたる反マケドニア闘争の失敗と非業の死そしてアテナイ人から死後に与えられたプリタネイオンの栄誉
前回書いたように、フィリッポス2世率いるマケドニアの台頭とギリシア世界への影響力の拡大が進んで行くなか、アテナイでは、イソクラテスを中心とする親マケドニア派とデモステネスを中心とする反マケドニア派の対立を経たのち、
最終的に、デモステネスの演説に心を動かされてマケドニア軍に対抗することを決意したアテナイの人々は、新たな同盟者となったテーバイの人々と共に、両軍の決戦の地であるカイロネイアへと赴いていくことになります。
そして、こうしてアテナイからギリシア諸国全体へとおよぶ反マケドニア運動の主導者となったデモステネスは、その後もギリシアの自由と独立を守ろうとする反マケドニア闘争へと自らの人生のすべてを捧げていくことになるのです。
若き日のデモステネスの言論の力によるアテナイの法廷での勝利
デモステネスは、紀元前384年にアテナイで刀剣をつくる工場を持っていた比較的裕福な工業家のもとに生まれることになるのですが、
その後、彼が7歳の時に父が急死すると、後見人となった人々が亡き父が残した財産を着服して使い込んでしまうことによって、デモステネスは後に残された妹たち共に生活にも困窮していくことになります。
そして、こうした窮地から家族を救うために、若きデモステネスは、当時のアテナイにおいて雄弁家として知られていたイサイオスのもとで学んで弁論術を身につけることによって、法廷の場において悪徳の後見人たちを訴えて勝利を得ることになります。
そしてその後、デモステネスは、必要に迫られて見いだすことになった自らの弁論の才能を生かして、法廷での弁論のための演説文をつくる法廷弁論代作家として名を上げていくことになるのですが、
その後、フィリッポス2世の率いるマケドニアの大軍がアテナイへと迫りくるなか、人間が持つ言論の力とアテナイにおける自由と民主主義の精神を深く信じるデモステネスは、
自らが持つ弁論の力を頼りに心の底から沸き起こる熱情のままに『フィリッピカ』と呼ばれる後世において古代ギリシア文学を代表する名文の一つとして伝わる反フィリッポス演説を行うことによって、
アテナイの人々、さらには、そのもとにつき従うギリシア諸国の人々を反マケドニア闘争へと結集させてマケドニアとの決戦であるカイロネイアの戦いへと導いていくことになるのです。
カイロネイアの戦いにおけるギリシア連合軍の大敗とデモステネスの弁明
こうして紀元前338年の8月に行われることになったカイロネイアの戦いにおいては、デモステネスの主導のもと、アテナイとテーバイを中心とするギリシア連合軍の陣営には数においてはマケドニア軍を上回る3万5000もの軍勢が集まることになるのですが、
重装歩兵の戦術に長けた天才的な軍略家であったフィリッポス2世と、のちに父フィリッポスをも大きく超える偉大な戦績を残すことになる若き日のアレクサンドロスが率いるマケドニアの精鋭軍の前にギリシア連合軍は大敗を帰することになります。
そしてその後、アテナイを含むギリシア諸国はフィリッポス2世を盟主とするコリントス同盟のもとへと組み込まれていくことによってマケドニアの支配下へと入ることになり、
カイロネイアの戦いでの敗戦の責任を問われることになったデモステネスは、アテナイの法廷の場へと引きずり出されることになるのですが、
デモステネスは、自らの主戦場である弁論の舞台において再び名演説を行うことによってアテナイの人々を言論の力によって説き伏せることになり、ギリシア世界における最高の弁論家としての名声を勝ち取ることになるのです。
デモステネスによる三度にわたる反マケドニア闘争の失敗と非業の死
そしてその後、カイロネイアの戦いにおけるアテナイの敗戦とコリントス同盟の締結からほどなくして、紀元前336年にピリッポス2世がマケドニアの王宮において暗殺されることになると、これを反撃の好機と捉えたデモステネスは、再び反マケドニア闘争をギリシア諸国へと呼びかけていくことになるのですが、
すでにマケドニアの支配のもとに服していたギリシア諸国は、もはやデモステネスの言葉に耳を傾けることはなく、民衆の支持を失うことになったデモステネスは母国であるアテナイからの亡命を余儀なくされることになります。
そして、さらにその後、フィリッポス2世の後を継いだアレクサンドロス大王がギリシアからエジプトそしてメソポタミアからインド西部にまで至る大帝国の建設へと至る東方遠征の途上にあった紀元前323年に熱病で急死してしまうことになると、
こうした情勢の変化に呼応して、デモステネスは三度目の大規模な反マケドニア闘争へと向けて立ち上がることになります。
こうして紀元前323年にはじまることになったアテナイを中心とするギリシア諸国のマケドニアからの独立を目指して行われることになったラミア戦争と呼ばれる一連の戦いにおいては、
当初はギリシア軍の側が優勢を築くことによって、一時はマケドニア軍を北方へと押し戻すことになるのですが、その後、東方遠征が行われていたアジアから帰還したマケドニアの援軍が到着すると、マケドニアの大軍の前にギリシア諸国の反乱は鎮圧されてしまうことになります。
そして、マケドニア軍がデモステネスを処刑するために放った追っ手が迫るなか、ペロポネソス半島の東岸に面したカラウレイア島のギリシア神話の海の神ポセイドンへと捧げられた聖域にまで逃げのびてきたデモステネスは、
この地で、彼のもとに現れたマケドニア軍の兵士の前で毒を口に含んだのち、祭壇の前まで歩みを進めてから倒れ、この地で命を落とすことになったと語り伝えられています。
こうしてデモステネスは、三度にわたる反マケドニア闘争の失敗ののち、異国の地において非業の死を遂げることになったのですが、
その後、アテナイへの深い愛国の精神のもとギリシアの自由と独立を守ろうとする戦いに自らの身を捧げていくことになったデモステネスの言葉がいつまでも心の内に残されていくことになったアテナイの人々は、
その高潔なる精神に深い哀悼の意を示して彼のことを讃える像を建てたうえで、彼の子孫たちに国家のために尽くした英雄と功労者のみに与えられるプリタネイオンでの饗宴の栄誉を与えることによって、その魂を弔うことになったと伝えられているのです。