パウサニアスのペルシアへの密通の疑いとアテナ神殿での非業の死:ペルシア戦争を勝利に導いた二人の将軍の最期①
前回書いたように、アケメネス朝ペルシアがヨーロッパへの領土拡大を目指して行ったギリシア世界への大規模な遠征としてのペルシア戦争は、
紀元前480年のサラミスの海戦と、その翌年に起きたプラタイアの戦いという海と陸の両方の決戦におけるペルシア軍の大敗によって幕を閉じることになります。
そしてその後、ギリシア本土の都市国家たちが、東方の大国であるペルシア帝国からの侵略を受けることは二度となく、古代ギリシア世界ではアテナイとスパルタを中心とする黄金時代が続いていくことになるのですが、
その一方で、こうしたサラミスの海戦とプラタイアの戦いという二つの決戦における勝利の立役者となることでペルシア戦争を勝利へと導いた二人の将軍、すなわち、
アテナイの将軍であるテミストクレスと、スパルタの将軍であるパウサニアスは、自分たちが戦場においては打ち破ることになったペルシア帝国との関わりのなかで、それぞれに非業の死を遂げていくことになるのです。
ミュカレの戦いにおけるギリシア連合艦隊の勝利とイオニアの解放
ペルシア戦争におけるギリシア連合軍とペルシアの大軍の陸上における最終決戦にあたるプラタイアの戦いにおいては、
将軍パウサニアスが率いる1万のスパルタの重装歩兵の活躍によって、ギリシアの連合軍が30万ものペルシアの大軍を打ち破ることになります。
そして、その後、
スパルタの将軍でありプラタイアの戦いを勝利へと導いた立役者でもあったパウサニアスは、敗走するペルシア軍を追撃するギリシアの連合艦隊の総司令官に任じられることになり、
パウサニアスが指揮するギリシア連合艦隊は、現在のトルコが位置するアナトリア半島南西部の海岸で行われたミュカレの戦いにおいてペルシア軍を破ることになります。
そして、
こうしたギリシア連合艦隊によるペルシア軍に対する一連の追撃戦のなかで、
イオニア地方を中心とするアナトリア半島の沿岸地域にあったギリシア人植民市はペルシア帝国の支配から解放されて再びギリシア世界の内に組み込まれていくことになり、
ギリシア本土とイオニア地方の間に広がるエーゲ海は、再びギリシア人たちの海となることによって、ギリシア世界に平和がもたらされることになるのです。
スパルタの将軍パウサニアスの人柄を伝える三つの逸話
このように、
プラタイアの戦いにおいてはペルシアの大軍を破ってギリシア世界を救い、その後もミュカレの戦いにおいて再びペルシア軍を破ることによってエーゲ海をギリシア人の手へと取り戻した武人としてパウサニアスは、
まさに非の打ち所がない古代ギリシアにおける最強の将軍の一人であったと考えられることになるのですが、
それでは、それに対して、一人の人間としてのパルサニアスは、具体的にどのような人柄や性格をした人物だったのかというと、それについては様々な話が伝えられていくことになります。
強い軍隊をつくり上げることだけに執着していたパウサニアスは、自分の配下であるスパルタの戦士たちのことはその強さを認めて優遇していたものの、他の同盟諸都市の兵士に対しては将軍たちにすら傲慢で横柄な態度をとることがあったとされていて、
自分が気に食わない兵士のことを鞭で打って痛めつけたり、船の錨を背負わせて見せしめにしたりするといった乱暴な行為を働くことも多く、
そうした行為をアテナイの将軍であるアリスティデスが諌めたところ、その忠告を無視して追い払ってしまうこともあったと伝えられています。
しかし、その一方で、
戦場におけるパウサニアスは、たとえ敵であったとしても勇敢な武人に対して敬意を払う高潔な人物であったとも伝えられていて、
プラタイアの戦いにおいて討ち取ったペルシアの将軍マルドニオスの遺体を、血気にはやるスパルタの戦士たちがテルモピュライの戦いにおいて首を斬り落とされたうえに磔にされたスパルタのレオニダス王の復讐として八つ裂きにしようとした時に、
「それは野蛮人にふさわしいことであって、ギリシア人にはふさわしいことではない」と言って押しとどめ、敵軍の将の遺骸を丁重に葬ることにしたとも伝えられています。
また、その後、
ギリシアを裏切ってペルシア軍の側につくことになったテーバイへと進軍し、和睦の条件としてペルシアに味方したテーバイ人の引き渡しを求めた際に、
アッタギノスという名のテーバイ人が捕まるのを恐れて町から逃亡してしまったため、その代わりに彼の子供たちが捕虜として引き渡されたところ、
パウサニアスは「親が犯した行いについて子供には何の罪もない」と語って、そのまま捕虜となった子供たちを町に返してあげたという話も伝えられているのです。
連合艦隊のビザンティオンへの侵攻とパルサニアスのペルシア王との親交
そして、その後、
パウサニアスが率いるギリシア連合艦隊は、エーゲ海をさらに北上し、アジアとヨーロッパを分かつ現在ではダーダネルス海峡と呼ばれているヘレスポントス海峡を越えて進軍を続けていくことになり、
のちに東ローマ帝国の首都であるコンスタンティノポリスが築かれることになるビザンティオンへと侵攻して、この地を拠点にトラキアや黒海周辺の地域にまで進出していたペルシア軍を内陸部へと押し返していくことになります。
そして、
こうしたビザンティオン侵攻におけるペルシア軍との戦いの際、ギリシアの連合軍は、ペルシアの王族を捕虜として捕らえることになるのですが、
その際、パウサニアスは、かつてのテーバイ攻めの時と同じように、捕虜たちに対して深い温情をかけることによって、彼らを無傷のままペルシア本国へと帰してやることにします。
そして、その後、
このことに深く感謝したペルシアの大王からの招きを受けることによって、パウサニアスはペルシアの王都へとのぼることになり、
この地でペルシアの王家の女性と婚約することになったパウサニアスは、ビザンティオンへと帰還したのち、王都でのペルシア人たちの生活に深く感化されて、自らもペルシア貴族のような服装や振る舞いを見せるようになったとも伝えられているのです。
ペルシアへの密通の疑いと青銅のアテナ神殿における非業の死
そして、
こうしたパルサニアスの振る舞いを目にしたギリシアの連合軍の兵士たちは、パルサニアスのペルシアへの密通を強く疑っていくことになり、
正義の人とも言われていたアテナイの将軍であるアリスティデスとキモンがスパルタへと使いを送ることによって、パウサニアスはスパルタ本国へと召還されることになります。
そして、
スパルタでの取り調べにおいては、ペルシアとの内通に関する証拠は見つからなかったため、パウサニアスは一度は無罪放免となるのですが、
権威が失墜し人望を失うことによってギリシアの連合軍を解任されることになったパウサニアスは、復権を目指して再びビザンティオンへと向かい、その後、トロイア地方のコロナイへと拠点を移すことになります。
こうしたパウサニアスの動きを目にして、
ペルシア王との内通を再び疑うことになったスパルタのエフォロイと呼ばれる監督官たちは、パウサニアスのことをもう一度スパルタへと召還することになり、
本国への召還を受けながらこれを無視して逃げることは武人としての不名誉となると考えたパウサニアスは、そのまま潔く帰国の途につくことになります。
しかし、今度の取り調べにおいては、
パルサニアスの使者からの密告もあり、彼がペルシア王との間で手紙のやり取りをしていたことが明らかにされ、それが密通の証拠とされることによって、スパルタの監督官であるエフォロイたちはついにパウサニアスの逮捕へと動き出すことになり、
こうしたエフォロイたちの動きを察知したパウサニアスは、スパルタのアクロポリスにあった青銅のアテナ神殿へと向かい保護を求めることになります。
スパルタの法の定めにおいては、
神殿の中にいる者は神の保護のもとにあるため、これを殺したり罰したりすることは神を冒涜する行為として禁じられていたため、彼のことを逮捕することはできなくなってしまったのですが、
このことを逆手に取ったエフェロイたちは、神殿の扉を閉ざして外へと出ることができないようにすることによって、パウサニアスを神殿の中に閉じ込めてしまうことになります。
そして、その後、エフェロイたちは、
彼らが卑怯な密通者とみなしたパウサニアスが飢えと渇きに苦しむ姿を、神殿の建物の屋根の上に開けられた小さな穴から長期間にわたって監視し続けていくことになり、
彼がついに弱りきって倒れてしまった時になってはじめて、神殿の扉が開かれることになるのですが、
すでに激しい衰弱によって息も絶え絶えになっていたパウサニアスは、そのまま外へと出されて日の光を浴びると同時に力尽きることによって非業の死を遂げることになるのです。