ドランドの悲劇とは何か?ロンドンオリンピックでのピエトリの幻のゴールと古代ギリシアのマラソンにおけるラダスの死
前回の記事で書いたように、古代ギリシアにおいて開催されていたオリンピアの祭典を中心とする古代のオリンピックにおいては、
現代のオリンピックにおけるマラソン競技の一つの原型ともなったと考えられるドリコス走と呼ばれる古代の長距離走の競技において、1着でゴールしたランナーが、
ゴール地点に到着すると同時に、激しい疲労のために意識を失ってその場に倒れ込んでしまい、そのまま意識を取り戻すことなく命を落とすことになってしまったという、のちに、「ラダスの死」と呼ばれることになるオリンピックにおける一つの悲劇が語り伝えられているのですが、
それから2000年以上もの時を経て、新たに開催されることになった近代オリンピックにおいても、こうした古代のオリンピックにおける悲劇は、マラソン競技における悲劇という形で再び繰り返されていってしまうことになります。
イタリアの小柄な陸上選手であったドランド・ピエトリと1908年のロンドンオリンピックにおけるマラソンの距離
近代オリンピックの第4回大会にあたるロンドンオリンピックの最終日にあたる1908年7月24日は、イギリスのロンドンでは珍しい異常な暑さに見舞われた日であったと記録されていて、
そうした気温の暑さと、オリンピックスタジアムとマラソンのコースとなる沿道へと詰めかけた大勢の観客たちの熱気が高まるなか、午後2時33分に、総勢で56人のランナーたちがマラソン競走のスタート地点を出発することになります。
そして、
この悲劇の主人公となる人物にあたるイタリアのマラソン選手であったドランド・ピエトリ(Dorando Pietri)は、身長159cmというヨーロッパ人としては非常に小柄な陸上選手だったのですが、
彼は、自分の持ち前の持久力を活かした地道なトレーニングを積み重ねていくことによって、5000m走やマラソン競走といった長距離走の種目において実績を重ねていき、
母国イタリアのカルピの町で行われた40kmのマラソン競走においては、2時間38分という当時としては圧倒的な記録で優勝をおさめることになります。
ちなみに、
それまでの歴代のオリンピックにおけるマラソン競走の距離については、
近代オリンピックの第1回大会にあたる1896年のアテネオリンピックにおけるマラソンの距離は約40km、
その次の第2回大会にあたる1900年のパリオリンピックにおいては40.26km、第3回大会にあたる1904年のセントルイスオリンピックにおいては40kmちょうどとなっているように、
当時のマラソンの距離は、現在のように42.195kmという正確な一定の距離には定まっておらず、むしろそれより短い40kmほどの距離で競走が行われるのが一般的であったと考えられることになるのですが、
それに対して、その次の第4回大会にあたる1908年のロンドンオリンピックにおいては、
イギリス国王が住むウィンザー城から出発して、ロンドンの市街地をめぐる42kmのコースを走っていったうえで、そこから国王が観覧することになる観客席の前までの195mほどの距離をスタジアム内の競走路を走っていくという
全部で42.195kmにおよぶコースがはじめてオリンピックにおけるマラソンの距離として新たに採用されることになったと考えらえることになるのです。
ロンドンオリンピックにおけるピエトリの幻のゴールと古代ギリシアにおけるラダスの死
そして、
こうした1908年のロンドンオリンピックにおけるマラソン競走においては、異常な暑さと熱気が立ち込めるなか、午後2時33分にほかの55人のランナーたちと共に、ウィンザー城のスタート地点を出発したピエトリは、
その後、20kmの中間地点のあたりまでは非常にスローペースで走り、後方から機会をうかがっていくことになるのですが、
そうした中間地点を過ぎたあたりから、持ち前の持久力を活かして一気にスピードを上げていったピエトリは、そこから他の選手たちをグングンと追い上げ、追い越していき、
32kmの地点において南アフリカのチャールズ・ヘフェロンに次ぐ2位のポジションにまで順位を上げていき、その後もさらに飛ぶようにペースを上げていくなか、
終盤にさしかかる39kmの地点において、ついに南アフリカの選手を追い抜いて1位となり、その後はスタジアムへと到着するまで独走態勢のまま残りのコースを走り抜けていくことになります。
そして、
ついにオリンピックのスタジアムへとたどり着き、勝利者を讃える歓喜の声に迎えられることになったピエトリは、その時点で自分がゴール地点に到着したのだと錯覚してしまい、
そのまま、それまでのレースにおける激しい疲労と勝利を成し遂げたと確信する安堵の喜びのなかで、その場に倒れ込んでしまうことになります。
そしてその後、本当のゴールはまだ先であることを告げられたピエトリは、地面へと4度倒れ込みながらそのたびに再び起き上がり、
その悲痛な姿を見るに見かねた近くにいた係員たちによって体を支えられながらも、少しずつゴールへと進み続けていくことになり、
最終的に、最後の350mほどの距離を10分もかけて進むという果てしない苦行の末に、やっとのことで2時間54分46秒というタイムとしては1位の記録で本当のゴール地点にまでたどり着くことになるのですが、
その後すぐに、2位のタイムでゴールしたアメリカの選手団からの抗議によって、係員の補助を受けてゴールしたというマラソン競技の規定違反にあたる行為があったという理由によってピエトリは失格となり、
こうしたロンドンオリンピックにおけるピエトリの記録も、正式な記録からは抹消されてしまうことになるのです。
ちなみに、
こうした1908年のロンドンオリンピックのマラソン競技においてピエトリ選手の身に起こった悲劇については、当時の新聞記事における報道としては、アメリカのニューヨークタイムズ紙において、
「1908年のロンドンオリンピックのマラソン競走の最後の場面で起きた出来事は、かの古代ギリシアのマラソン競技で起きた事態以来で最も感動的で痛ましい出来事だと言っても過言ではないだろう。勝者はゴールすると同時に倒れ、歓喜の波のなかで死んだのである。」
といった文言の記事が掲載されたという記録が残されているのですが、
この記事のなかで述べられている古代ギリシアのマラソン競技における死者というのは、冒頭で述べた古代のオリンピックの長距離走競技にあたるドリコス走に勝利した直後に命を落とすことになったラダスの死のことを意味していると考えられることになります。
そして、以上のように、
こうした1908年のロンドンオリンピックにおけるマラソン競走においてイタリアのピエトリ選手の身に起こった悲劇は、その後、彼自身の名前をとってドランドの悲劇と呼ばれていくことになり、
古代ギリシアのオリンピックにおけるラダスの死に並ぶ、オリンピック競技そしてマラソン競走における二つ目の悲劇として現在の時代に至るまで語り伝えられていくことになっていったと考えられることになるのです。
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次回記事:オリンピックのマラソン競走における世界三大悲劇とは?古代から現代へと続く長距離の競走競技における三つの悲劇の物語
前回記事:古代オリンピックの長距離走におけるラダスの死と古代ギリシアにおけるミュロンの彫刻
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