格率と道徳法則の違いとは?カントの倫理学における主観的な行動原理と客観的な倫理規則としての両者の区別
格率(かくりつ)という言葉は、主に18世紀のドイツの哲学者であるカントの倫理学における道徳論的な議論のなかで登場する人間の行為における規則や原理のあり方を意味する概念であり、
それは、もともとはドイツ語におけるMaxime(マクスィーメ)という単語の訳語にあたる言葉であるということになります。
そこで今回の記事では、
こうした格率という言葉がその訳語となっているMaximeという言葉は、ドイツ語における大本の意味としては具体的にどのような意味を持つ言葉であったと考えられるのか?
そして、
こうした格率という概念は、カントの倫理学においては、一般的な意味における道徳法則とは、どのような点において異なる意味を持った概念として位置づけられているのか?
ということについて、詳しく考えていきたいと思います。
ドイツ語におけるMaxime(マクスィーメ)の具体的な意味とは?
まず、
こうした日本語における格率という言葉がその訳語としてあてられているドイツ語におけるMaxime(マクスィーメ)という単語は、
ちょうど英語でいうと格言や金言などを意味するmaxim(マキシム)という単語にあたる言葉ということになります。
例えば、
「雄弁は銀、沈黙は金」という格言は、ドイツ語においては、
“Reden ist Silber, Schweigen ist Gold”(レーデン・イスト・ズィルバー、シュヴァイゲン・イスト・ゴルト)
と書き表されることになりますが、こうした格言やことわざにあたるような言葉は、人生の真実や機微を語ることによって、万人にとっての戒めや教訓になると同時に、
そうした格言やことわざがある特定の人物の座右の銘などのようなものとして選ばれるときには、その言葉は、そうした一人ひとりの人物の個人における生き方や行為の規則や原理のあり方としても位置づけられていくことになると考えられることになります。
このように、
こうした格率すなわちMaxime(マクスィーメ)という言葉は、そのドイツ語における大本の意味においては、
人生をより生きやすくするための処世術や格言といった意味を表す言葉であると同時に、一人ひとりの人間における個人的な行動原理のあり方を意味する言葉としても捉えられることになると考えられることになるのです。
カントの倫理学における格率と道徳法則の具体的な意味の違いとは?
そして、
カントの倫理学においては、こうした格率という言葉は、
前述したような人生をより良く生きやすくするための処世術や格言といった意味を含みつつ、そこから人間における様々な道徳的行為のあり方へもつながっていくような個人におけるより広い意味における主観的な行動原理のあり方のことを意味する概念として位置づけられていくことになり、
それは、すべての人間の行為のあり方を普遍的に規定する客観的な行動原理である普遍的な道徳法則のあり方に対置されつつも、それと同時、そうした客観的原理としての道徳法則の存在をも自らの内に受け入れることができる人間における理性的な意志に基づく行動原理のあり方としても捉えられていくことになります。
つまり、そういった意味では、
こうした格率と道徳法則という二つの概念は、
前者の格率という概念は、一人ひとりの人間の意志における主観的で個人的な行動原理のあり方を意味するのに対して、
後者の道徳法則という概念は、理性的な存在者としてのすべての人間の行動のあり方全体を規定する客観的で普遍的な倫理規則である
といった点に、こうした二つの概念の間の具体的な意味の違いを見いだすことができると考えられることになります。
そして、
そうしたカントにおける道徳観や倫理思想がまとめられた集大成となる書物である『実践理性批判』においては、
「汝(なんじ)の意志の格率(かくりつ)が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当するように行為せよ」
という言葉が純粋実践理性における根本法則として位置づけられているように、
カントの倫理学においては、
そうした一人ひとりの人間の意志における主観的な行動原理のあり方が、客観的な倫理規則としての普遍的な道徳法則と一致するような高みへと引き上げられていくことが、
人間が歩むべき道徳的な生き方の究極の目標として位置づけられていると考えられることになるのです。
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次回記事:目的の王国とは何か?カントの倫理学における「目的の王国の定式」に合致する道徳的に正しい意志に基づく行為の具体例
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