知性とは何か?⑥中世スコラ哲学における普遍論争とオッカムの認識論における人間の心の内にある個別的な知性の存在

前回の記事で書いたように、古代ギリシアのアリストテレスにおける哲学体系を中世ヨーロッパのスコラ哲学へと導入していく役割を担ったイブン・シーナーイブン・ルシュドといったイスラム世界の哲学者たちの哲学思想においては、

アリストテレス哲学における能動知性と呼ばれる神の存在の内に見いだされる知性のあり方に基づいて、

神の存在における能動知性に対応する人間の魂における可能知性の存在も究極的にはただ一つの普遍的な知性の存在の内に求められていくことになるという知性単一説と呼ばれる知性の存在の捉え方が示されていくことになります。

そして、

こうしたイブン・ルシュド(ラテン語名ではアヴェロエス)における知性単一説を中心とする人間における知性の存在のあり方を普遍的な存在として捉える思想は、

その後の中世ヨーロッパにおけるスコラ哲学の内へと基本的にはそのまま引き継がれていくことになるのですが、

それに対して、

14世紀のイギリスのスコラ哲学者であるオッカムにおける唯名論として位置づけられるような哲学思想においては、

こうした中世スコラ哲学におけるアヴェロエス的な普遍的な知性の存在のあり方とは異なる人間の知性についての捉え方が示されていくことになります。

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中世スコラ哲学における普遍論争とオッカムの個体主義に基づく唯名論の議論

そもそも、

唯名論(Nominalism、ノミナリズム)とは、

哲学史において、中世ヨーロッパのスコラ哲学において繰り広げられた類や種といった普遍的な概念の存在の位置づけのあり方をめぐる普遍論争の議論のなかで形成されていった実在論と対立する認識論的な立場のことを意味する言葉であり、

それは、一言でいうと、

類や種すなわち人間や動物といった普遍的な概念は、「ソクラテス」や「この馬」といった個別的な事物のような実在的な存在として、それ自体として自立的に存在しているわけではなく、

人間の心における言語的な認識の内にある語や名称(nomen、ノーメン)としてのみ存在すると考える立場のことを意味するする言葉として定義することができると考えられることになります。

そして、

オッカムの哲学思想においては、

「心の外のいかなるものも、それ自身によって個であり、数的に一である」

と語られているように、

人間の心の外に実在する一つひとつの個体的な事物は、「人間」や「動物」あるいは「大きい」「小さい」「白い」「黒い」といった様々な普遍的な概念による規定を受けていなくても、

それ自体としてすでに一つの個物として成立しているという個体主義に基づく存在論上の考え方が示されていくことになるのですが、

こうしたオッカムの哲学における個体主義に基づく一連の議論のなかでは、

認識の対象となる事物の側には個物のみが存在しているのであって、類や種といった普遍的な概念の存在は人間の認識の内にある語や名称としての存在としてのみ認められるという唯名論へとつながる考え方が示されていくことになるのです。

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オッカムの認識論における人間の心における個別的な知性の位置づけ

そして、

こうしたオッカムの個体主義に基づく唯名論へとつながる議論においては、

現実の世界において実在するものは個物としての一つひとつの事物の存在のみであって、普遍的な概念の存在は人間の心における言語的な認識の内にある語や名称として存在しているにすぎないという考え方から、

人間の認識のあり方においても、普遍ではなく個物こそが認識の対象となっているという個体主義的な認識論のあり方が示されていくことになります。

そして、それに伴って、

そうした個別的な事物の存在を認識の対象とする認識の主体となる知性の存在についても、

それは、現実の世界において実在するものとして捉えられている以上、全人類に共通するような普遍的な知性としてではなく、人間の心における個別的な知性において認識の働きが生じていると捉え直されていくことになっていったと考えられることになるのです。

・・・

以上のように、

14世紀のイギリスのスコラ哲学者であるオッカムの哲学思想においては、

現実の世界において実在するものは一つひとつの個別的な事物の存在のみであって、普遍的な概念の存在は人間の心における言語的な認識の内にある語や名称として存在しているにすぎないとする唯名論へとつながる考え方に基づいて、

人間の心における認識の働きすなわち知性の存在のあり方についても、それは、一人ひとりの人間という個別的な存在者における個別的な知性の働きの内に求められることになるという考え方が示されていくことになると考えられることになります。

つまり、

こうしたオッカムにおける一般的には唯名論として位置づけられる哲学思想においては、

中世スコラ哲学におけるアヴェロエス的な普遍的な知性の存在のあり方に対して、一人ひとり人間の心の内にある個別的な知性の存在のあり方を人間における認識の原理として位置づけていくという

近現代の認識論哲学へと通じる知性の概念の捉え方が示されていると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:知性とは何か?⑦ロックとカントの哲学における概念的な理解力としての知性の定義と感性と理性の中間に位置する心の働き

前回記事:知性とは何か?⑤イブン・シーナーとイブン・ルシュドのアリストテレス解釈に基づく知性単一説の議論

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